春のための三つの断章
前田ふむふむ
1
眠れない夜は、
アルコールランプの青白い炎に揺られて、
エリック・サティーのピアノの指に包まれていたい。
卓上時計から零れだす、点線を描く空虚を、
わたしの聴こえる眼差しで焼いて、
わたしの盲目の耳を、
甘酸っぱい短調のかおりと、
仄かにぶれる炎の姿態の軋む声と、が、
蔽いひろげて、
冷やされた柩の春を、
萌え上がらせてみたい。
止まった時のなかで溺れる、失踪した肖像画が、
一枚、
きのうの空から舞い落ちてくるような、
峻険な壁の音の記憶をなぞり、
わたしは、沈んでいるひかりの寝台の、東の稜線と西の稜線と、を、
震える指の円で掬び、
夢の瞬きのなかで掬び、
風見鶏が気まぐれに振り向く、
色づいた結び目はピアノ音階に流れて、
静寂として薫る夜の、生々しい呼吸の足跡のなかに、
生まれ出る炎の色をひとつひとつ旅立たせる。
ゆっくりと抱きしめるように。
よぎる閃光の声。充当する一歩の音階を引き摺り、
押し寄せる、眩しい暗闇が、・・・
(汗ばんだ白い乳房にみえる――やわらかい音を染めながら、
・・・冬の静物を動かして、
わたしの手は、思わず頬張る、
滴る血のように、輝きすぎる、この林檎の感触は、
はじめて見た山々ではないだろう。
2
赤い空は、見たことがある。
空を突き刺す菩提樹のふところに、
寂れた病院が、弱々しく風に靡いている。
病院を支えるエタノール液をひたしたガーゼは、
患者の苦痛のなみだに、発火して、
紙のような病院は、一瞬で、燃え上がる。
逃げ惑うカレンダーの患者たち。
(逃げる母親は、息絶えた赤児を抱いて、
やっと見つけた運河のぬるい水面に、首だけをつかり、
熱さを耐えている。
苦しい眼のなかに、無邪気に口からシャボン玉を飛ばして、
笑う赤児を浮かべて。
見わたせば、水路には、
夥しい首のない患者の遍歴が並んでいる。
その傍らを、
ひかりの芝生がひかれて、喪服を着た、
赤々と微笑みあう二本の葬列が、
草を踏みしめていく。
誰一人として、視線を、運河の水面に向けるものはなく、
わたしは、最終列を歩み、
蒼い空を仰いで、享楽の声を、掌に抱く。
「新しいって、いいことだね。」
白い鯨が、空洞の胸の街並みを、泳いでいる。
3
古い色を話そう。
影をふたつ以上引き摺る、わたしが、
深呼吸するコンクリートの三十五番目のビルの、
内からしか開かないドアのなかで、
原色の造花を植えている。
入口のガラス戸には、昔、貼られた「生け花を植える」という
求人募集のはり紙が、剥がれかかっている。
原色が壊れてもいくらでも変りはある。
携帯電話のメールは、いくらでも書き直しをして送れる。
眼で削除すれば、ふたたび、
枯れない水彩画を描ける。
「仕事のあることは、いいね。
暗がりで、引きこもることもしないでいいし、
恥ずかしい路上で、虚無僧姿で、
使い古した尺八を吹いて、踊ることもないね。」
・・・・・・
垂直に立つ、一筆がきの夜は、消えかけている、
透ける薄いコートを着て、
わたしには、もう見えないのかも知れない。
一輪の夕暮れを、鳥篭にしまうカナリヤの気高さよ、
乾いた月の声を吐いて、
溢れる涙腺の泉を、越えてゆけ。