クラウディ
渡邉建志

03/04/12

ねえ、クラウディ、あれはカスケードなんだ。僕が好きなのは長い文章の合間に挟まっている短い文章なんだ。あるいは名詞にかかるクレージーに長い修飾節なんだ。それはもういいよ。そんな話はどうでもいいんだ。原宿に行ってOさんがすすめてくれた原宿餃子楼に行った。急いで食べてNHKホールに行ったよ。デュトワの、きっと最後のコンサートだったんだろうね。あのNHKホールが、S席以外売り切れだった。もう怒るとか残念がるとかより、驚いたよ、デュトワさん最後まで愛されてよかったね、僕は一度しか見ることが出来なかったけれど、と思ったよ。それで仕方なく渋谷に下りてちょっとカッコイイ帽子なんか買っちゃったよ、2000円だった。それからハーゲンダッツにイってアイスクリームを食べて吐きそうになったよ。口の中がディズニーランドみたいになった。あんまり甘いものが好きじゃないんだ。それから、Eが紹介してくれたイタリア文化会館のセミナーに行ったよ、いったって言っても僕はイタリア語が分からないからNだけ教室に入っていって僕は他の空いてる教室でファインマンさんが量子力学を語るのを読んでいたよ。英語で読んだ、日本語で読むのと全然違って、エキサイティングだよ、全然違うんだ、ビックリしたよ、その、山形浩生がいってたけど、日本人の訳者ってきっと読者に語りかけようとしていないんだ、ファインマンになりきれてないんだ、だから一番どうでもいいように見えて実は一番大切なショーマンシップ、パフォーマンス、ドキドキ感を訳しきれてないんだ。千鳥が淵は今日も雨だった。千鳥が淵の入口の標札に「←千鳥が淵 10m」ってマジメに書いてあったのはかなり面白かったよ。写真があったらよかったのに。写真があったら、って思ったのはもう一回今日あって、トイレの中で、水を流すボタンの横に「何とかかんとかCの使用法」とか書いてあるんだ。ただの水洗トイレのボタンだよ。なんでCとかつけるんだって突っ込みたくなるよね。あとそのトイレに、「こいつのイジメのおかげで俺の友達が自殺しました、悪戯電話にご協力ください、(番号)」っていう落書きがあって、暗澹たる気分になったよ。あ、千鳥が淵のイタリア文化会館の話だったね。つたに囲まれた恐ろしく古い建物だった、まるでK寮みたいだった、だけど内装がとてもオシャレでイタリアの匂いがした(って書き方ちょっと村上龍っぽくね?)。白、緑、そして床は落ち着いた茶色、タルコフスキーの「ノスタルジア」のホテルみたいでもあった、あれもイタリアだね。終わってから、食事に誘われて、だけどいい店が無かったからデニーズに入った。デニーズってディズニーみたいだって今思った。そこでイタリア人に囲まれて分からない話をきくことになるのかなと思っていたら、僕にも日本語で話し掛けてくれてうれしかった。今日のセミナーのテーマは仏教だったらしく、西田幾多郎の話なんかしたそうで、「僕のばあちゃん幾多郎さんが家の前通るの何回も見たそうだよ」って言ったら喜んでくれた。幾多郎さんは散歩が好きで、哲学の道を弟子と散歩したりしたことから「哲学の道」っていう名前がついたんだけれど、哲学の道に上がるときの通路に僕のうちがあった。哲学の道にある石碑の話とかして、例の「われはわれひとはひとなり」の和歌の話でイタリア人と盛り上がってしまったよ。彼いわく、その和歌を知っている今まで会った最初の日本人だって言われた。いつも彼が教える立場なんだって。やっぱり日本のこと勉強してるイタリア人のほうが日本のことよく知ってたりするんだろうね。僕も偉そうなこと言って「善の研究」なんてものの10分でほうり投げてしまったよ。それから家に帰って、途中で本屋によって、3冊も買ってしまった。ブルーバックスの「『分かりやすい表現』の技術」、「『分かりやすい説明』の技術」、あと和田秀樹の「スキマ時間勉強法」。最初の2冊は、立ち読みしてものの5分で嵌ってしまった、もう爽快なんだ、ダメな看板やマニュアルをばったばったと切り倒していく姿がね。で思わず二冊買っちゃった。和田さんの方は迷ったし、もうノウハウ本ばっかり本棚にあるのってかっこ悪いけど、立ち読みしてやっぱり面白かったんで。時間の使い方とか、そういうの僕下手だからね。それで、それを買った後、スヌーザーなんか久しぶりに読んだら表紙が tatu(もう表記なんて!)だった、インタビューみて、それからGOGO7188(だっけ?)の記事を読んで、なんだかよくわからない攻撃的で刺激的な日本語が僕の中で沸騰してくるのを感じたけれど、メモもボイスも無かったし、有ったとしても本当に言葉になったかどうか分からない、だけど久しぶりにそういった怒りのような刺激が沸いてきて驚いた、これが時代なんか、これがエッジなんか、って思った、エッジは刺激だ、刺激だけで出来てる、この興奮をえるためには、「本当にいいもの」かどうかなんて必要条件じゃない、ただ刺激物であることは、必要条件だ。今少年隊の服なんて見て、なんてやすっぽい銀色ペラペラの服なんだって思うだろう、だけどあの当時はそれがショッキングだったんだ、僕だってあの当時生きてたら真似してた可能性だってあるんだ、いまこうやって離れた地点から落ち着いて見ているからあれを「本当にいいもの」ではないと判断してるだけなんだと思うよ。ベートーベンですら、当時では刺激的だったのだ、前衛的だったのだ、ただ彼のものは本質的に必要とされるものだったから残ったんだと思う。だけどその刺激とか前衛性をも今僕が感じられるかというとそれは嘘だ、ドビュッシーを聞いてしまっている、ショスタコも聴いてしまっているんだから。話がずれた。僕は異質な日本語のことを考えていた、たとえばマジメな文章の中に出てくるナース服とかそういった異質なものについて考えていた、しかしその異質性(なんだ、あのロシアフォルマリズムのいってたのはなんだっけ?)はやっぱりさっきの刺激性と同じで時代とともに消え去っていくのだと思った、感性なんて。ああ、落ち着け、落ち着け、こんなことを書くつもりじゃなかったんだよクラウディ、本当は、何のために本を読んでいるのか、アインシュタインの「教養とは、学校で習ったことすべてを、忘れた後に残っているところのものである。」について話そうと思っていたんだ、片っ端から読んだ本を忘れていく俺は一体なんなんだ、大江健三郎の子供時代の話を思い出してみる、「「お母さん、図書館の本を全部読みました」と言うと、母親は何も言わず、身仕度を始め、自分を図書館に連れて行き、本を取り出し、何ページ目かを読み、そして「続きは?」と言った。10問のうち3問ぐらいしかできず、すると母親は「あなたはどんな目的で本を読むのか?。それは時間をつぶすためか?。1ページ読んで、すぐ忘れるなら、自分の忘れる能力を訓練するためか?」と言われた。それから、本の読み方が変わりました。本を読むと、カードを取るようになりました。できるだけ記憶するようになりました。」こういう話だ、あるいは村上春樹のエッセイにあった、彼の妻が映画を見た後に必ずその映画からえた教訓(大抵はつまらないものだ)を話すのに最初は辟易したが、映画を「教養的に」見る人たちに辟易するにしたがって(おそらく蓮実のことだろう)、妻のほうに共感するようになった、という話を思い出してみる、そういったことから、自分なりの答えを導き出そうって思ったんだ、それはほんとうなんだクラウディ、だけどもう僕の頭の中は梅雨のようだよ。僕は梅雨が好きだよ、くるりを聴くと梅雨だと思うよ、梅雨のなかで抑圧される18歳のエネルギー、じめっとした、くもった、締め切った部屋でひとりで無為に出されていくエネルギーを思うよ。


未詩・独白 クラウディ Copyright 渡邉建志 2007-04-17 21:42:16
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