祖父のこと
ふるる

自分の娘が二人の娘を連れて実家に戻ってきたら、どんな気持ちがするだろうか。三人の娘も無事に結婚したし、そろそろ引退でもするかな、と思っていた頃に、また娘と小学生の孫娘2人を扶養しなければならなくなったら。

私の祖父は寡黙な人だ。と言うより、ほとんど喋る機会がなかったと言える。
家では、姉、母、祖母がよく喋っていた。私もかわいがられてはいたけれど、喋る機会は与えられなかった。

私と祖父はよく二人でお茶を飲んだ。祖父が裏の工場でしている仕事を休憩するために、おやつを取るのだ。普段喋らない二人なので、特に喋ることはない。二人で水戸黄門の再放送を見ながら、黙々とお菓子を食べ、お茶を飲む。

家には、よくお客が来てにぎやかな応接間があり、家の裏には、祖父が黙って検眼用のレンズを作る、小さな工場があった。
私はたまに応接間に呼ばれて、見ず知らずのお客に挨拶をし、隣に座らされたり、ピアノを弾かされたりした。嫌だった。しかし母は出戻りで行くあてもなく親子三人を養ってもらっている以上、仕方がない。誰かに扶養されて暮らすということは、多少なりとも求められる役割を演じなければいけないということだ。その役柄がぴったり合っていれば申し分ないが、私は人に撫でられたり見られたりするのが大嫌いだった。

お客や家族の大きな笑い声を聞きながらも耳は外に向く。祖父の働くレンズ工場からは、規則正しい研磨機の音がする。それはまるで生き物の心臓の音のようだ。私は工場や機械が好きだった。規則正しく鼓動しながら、決して喋らない。甲高い声で笑いもしなければ、さあお客さまにご挨拶しなさい、とも言わない。

よく喋る祖母や母がいないと、戦後すぐに建てられた古びた家は、多少の暗さを含み広々としんとした。
しんとした中で、ある日私は祖父とおやつを食べながら、童話の世界に入り込んで、夢中で読んでいた。終わって、本を閉じたとき、
「もう、終わったのか。」祖父が聞いた。
「うん。」
それだけだった。
それだけのことを、今でも覚えている。

あの古い家は土地を借りて建てられていたので、バブルの時期に立ち退きを要求され、今はもうない。別の場所に、現代風の邸宅を建ててもらったのだが、半地下の部屋に祖父は研磨機を入れ、水道を引かせ、一部屋分の小さなレンズ工場を作った。
隣の部屋は応接間で、革張りの大きなソファーとピアノが置いてある。
「応接間の隣なのに、黙ってやっちゃうんだから。」
祖母はぶつぶつ言っていたが、私はなにか晴れ晴れとした気分だった。

自分の娘が二人の娘を連れて実家に戻ってきた時の気持ちを、ついぞ祖父から聞いたことはない。

八十六歳になった祖父はレンズの仕事をやめ、日なが一日TVを見たりしている。
相変わらず喋ることは少ない。

私は、祖父の寡黙さを愛している。


散文(批評随筆小説等) 祖父のこと Copyright ふるる 2007-04-17 10:52:12
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