【短:小説】深夜の電話
なかがわひろか
彼から電話があったのは、すっかり眠りについて、そろそろ楽しい夢でも見れそうだなと思っていたあたりだから、夜の2時くらいだろう。とにかくこんな時間に電話をかけてくるということはそれほどいい連絡でないことだけは、受話器をとる前に僕が考え付いた一つの仮説だ。電話のベルが7回ほど鳴った後(僕は大体電話のベルは7回ほど鳴らすようにしている。それはただの習慣と言っていい。)僕は受話器を取った。
「僕だよ。××○○だ。」
それはとある有名な小説家の名前であった。
はじめに断っておくと僕は小説家でもないし、ごく普通といっていいくらいのサラリーマンだ。サラリーマンでもないとこんな時間にぐっすり睡眠に入っている訳がない。
僕は数秒間黙ったままだった。だってそうだろ。突然有名小説家にこんな深夜遅くに電話をかけてこられて普通に対応ができるほうがおかしい。
「もしもし。」僕はとりあえずそう返した。
「いつも僕の作品を読んでくれてありがとう。君ほど熱心な読者はいないよ。」
確かに僕は彼の本をいくつか読んだことがある。ただ有名なものをかいつまんで読んでいる程度で、決して熱心とは言えない。それどころか、僕はどちらかというと彼の作品のどこか多くの人の心を惹きつけるのかが全く分からない。
「今は次の新作について執筆中なんだけどね。ちょっと詰まってきたんだよ。だから気分転換に君に電話を掛けた。夜遅くにすまなかったね。」
まったくだ。それにおそらく彼は人違いをしている。何度も言うようだけど、僕は決して彼の言うような熱心な読者なんかじゃない。
「今度の話は君が主人公なんだ。どうしても君の話を書きたくてね。」彼は続けた。
「君の人生はそのまま言葉で描写しても十分に小説的だと言えるよ。本当に素晴らしい。僕は君のような読者、いや、もう君はある意味僕の親友とも言えるだろう。そんな友を持てたことを本当に幸福に思うよ。」
僕はそろそろ自分の身の内を明かすべきだと思った。とにかく僕は今無性に眠いし、この場合僕には何の非もないことはよく分かっていた。だから僕はさっさとこの電話を切って、眠りにつくべきなのだ。OKそれでいい。僕はこのまま眠りについていいんだ。
「あの、間違い電話じゃないでしょうか。どなたかと間違われていると思うんですが。」努めて、努めて僕は儀式的な対応をした。完璧だ。僕は何も間違っていない。
「いや、いいんだよ。君がそういうのも無理はない。君にとっては、ある意味・・・傲慢な言い方かもしれないが、僕は雲の上のような存在だろう。だがそれを危惧する必要なんか何もない。僕はもう君のことを十分に親友だと思っているんだから。」
僕はもう一度、丁寧に(本当に丁寧に)先ほどの科白を繰り返した。
その作家は、しばらく沈黙した後に、突然がちゃっと電話を切った。
僕は少々唖然としない訳にはいかなかった。なぜなら僕は何一つ間違っていなかったからだ。OK。こんな夜もあるさ。僕はもうそう自分を納得させるしかなかった。まだこれから睡眠に入ったとしても、日常的には何の問題もない。まだやり直せる。
僕は迷わずベッドに戻った。
一ヶ月後、とある文芸誌に電話をしてきた小説家の作品が発表された。
タイトルは「見知らぬ電話の向こう側」。
やれやれ。物書きも楽じゃない。