家族という不思議な集合体。
渕崎。
「家族」とはなんとも不思議な集合体だとわたしは思う。
父親は、実家ではなく少し離れた場所で家族を養うために働いている。
母親は、家族のために食事を作り洗濯をし、そしてパートへと出かけていく。
弟は、毎日毎日何が楽しいのかわからないが楽しそうに学校へ通う。
わたしはぼんやりとそれを日々眺めながら、過ごす。
時折気が向いたときには洗濯物を畳みながらパートに出ている母の仕事場の愚痴交じりの話を聞き、食卓を囲めば弟がつらつらと脈絡もなく今日あった出来事を楽しげに話すのに耳を傾ける。
週末だけ帰ってくる父とは会話らしい会話はないが、週末だけの夕食を一緒し、ただリビングで同じ空間を共有する。
家族でそれぞれのいいたいことばかりの会話が飛び交う食卓を囲む以外、誰一人として一緒に行動をとるものはいない。
時折、食事を終えたあとも全員がなんとなく意味も理由もなくリビングに集合しているとき、そんなときすら同じ空間にいるのに会話一つなく、てんでばらばらの好き勝手な行動をとる。
なのに、それ関して違和感を感じることも不都合を感じることもなく、ただ黙々と各自のしたいことをやっている。
日記をつける父。
アイロンをかける母。
宿題をする弟。
PCの画面を見つめるわたし。
そして、家族の誰かのそばに寝そべって甘える愛犬が一匹。
わたしにとってそれは見慣れた家族の風景で、それがあるべき家族の風景でもあるのだ。
年齢も性別もまったく違う四人が、ただ家族というだけでこんな風に同じ空間でくつろいでいる。
時折冗談を言って笑いあったり、ちくりとした嫌味を飛ばしたり、でもそれをも笑い飛ばしたり。
そこに遠慮はなく、あるのはただ親愛の情だけ。
わたしにとって「家族」は「家」という一番小さなコミュニティーに属する者たちの集まりだ。
けれど、同時に「家族」とはなんとも不思議な集合体だとわたしは思ってしまう。
他人だった父と母が出会って結婚し、わたしたち姉弟を生み育て、こうして顔をつき合わせて同じテレビ番組を見て他愛もなく笑いあっている。
好きなものも嫌いなものも趣味も性別(母は別だが)も年齢だってまったく違う、共通点なんかまったくない相手なのに、なのにもうずっと、わたし達は家族をやっている。
そして、それが当たり前のようで一等幸福なことであることも知っている。
だからわたしは今日も、この「家族」とはなんとも不思議な集合体の中に身を浸して家族の声を聞き続けるのだ。
「おはよう」
「いってらっしゃい」
「おかえりなさい」
「いただきます」
「ごちそうさま」
そして、今日もまた
「おやすみなさい」
当然のように当たり前に明日が来ることを疑わずに。