数字地獄
黒猫館館長
戦後の前衛短歌界を塚本邦雄と共にリードした
歌人・寺山修司は第三歌集『田園に死す』(白玉書房)
のなかで「短歌」に対する「長歌」の試みを行っている。
その冒頭部分を書き出してみる。
長歌 指導と忍従
「無産の祖父は六十三 番地は四五九で死
方より 風吹ききたる 仏町 電話を引
けば一五六四 隣へゆけば 八八五六四
庭に咲く花七四の八七」(22p)
この引用部分での寺山修司は数字と文字をかけあわせている。
例えば
四五九=地獄&死後苦
一五六四=人殺し
八八五六四=母殺し
という風である。
この一見ナンセンスに思える言葉遊びではあるが
わたしにはこの長歌を笑うことはできない。むしろ
わたしが日頃から感じている恐怖を寺山修司に打ち抜かれたようで寒気を感じる。
わたしはデジタル数字が怖い。
今パソコンを見ている画面の右下にデジタル時計がある。
また携帯電話にはいつもデジタル時計が表示されている。
腕時計はわたしはデジタル時計が嫌なのでアナルグの時計を使用している。
さてなぜわたしデジタル時計が怖いのか。その答は「不吉な数字」を見てしまうことが怖いのだ。
例えば
4=死
42=死に
94=苦死
さらにわたしは「6」が怖い。理由などない。
ただひたすら「6」が怖いのだ。小学生時代のわたし
は「6」という数字を日頃から見ないように努力していたぐらいである。
さてこれらのわたしの恐怖は馬鹿げた思い込みなの
であろうか。しかしホテルや病院で必ず「4号室」を外すのはなぜなのか。
なぜ「13日の金曜日」という題名の映画が何度も封切られるのか。
わたしには数字が神からのメッセージに思える。
それも善良な神ではない。
ギリシャ悲劇に登場するような不吉を告げる恐ろしい神である。
わたしもまたいつもデジタル時計に怯えている。
も し「42」だったら、
もし「41」だったら厄災はこれから来るのか、
「43」だったら厄災はもう過ぎ去ったのか、
「44」だったらわたしは二度死ぬ運命なのか。
デジタル時計に囲まれた生活でわたしはいつも怯えている。
異界から不吉を告げるメッセージが数字に託されて送信されてくるのではないのかと。