Mの肖像
んなこたーない

 Mが自殺したという報せを受けたときのことを、ぼくは今でも克明に覚えている。実はその前日に、ぼくはとある女性と飲みに行ったのだが、その女性が恐るべきスピードで日本酒の熱燗を飲みまくるので、すっかり酔いのペースを乱されたぼくは一人だけひどく酔っ払ってしまい、挙げ句の果てにおあずけをくらうという失態まで犯してしまった。しかも、それだけならまだよかったのだが、帰り道に酔いを覚ますためと今日の出来事を反省する機会を得るために、しばらく落ち着いて休憩しようとどこか座れる場所はないかと探していたら、ちょうど公園の噴水が目に入った。今にして思えば、公園なのだからもう少し探せばベンチくらいあったに違いないのだが、とにかくぼくはその噴水の縁の部分に腰掛けようとして、水中に転げ落ちてしまった。そしてそのまましばらく眠り込んでしまったらしい。気づいたときには、全身ずぶ濡れで、酔い覚めとはまた違う種類の悪寒に震え上がった。結局、ひどい風邪をひくはめになってしまった。
 なので、ちょうどその日は仕事も休んで、一日中トイレに行く以外はベッドの中でうなされていた。Yから電話がかかってきたときも、一瞬出るのを躊躇った。しかしどうしても居留守を使う気にはなれない。これはぼくの性分である。彼女といるときに他の女性から電話がかかってきても、ぼくは平然と電話に出ることが出来る。というより、それが当然のことだと思っている。
 Yはかなりの早口でMの自殺を告げると一方的に電話を切った。ぼくは呆気にとられてしまった。が、しばらくすると合点がいった。というのも、その日は四月一日、エイプリールフールだったのだ。
 Yは当時二人の子持ちの女性と交際していて、一度深刻な顔をしてぼくに語ったことがある。女の元夫はいま刑務所にいる、不動産屋を営む父親がヤクザから死体運びを依頼されて、その身代わりで捕まったのだという。そいつは出所したら彼女とよりを戻したいと希望していて、あと一週間で刑期を終える。これからきっと面倒なことになる。ああ、おれはどうしたらいいんだ。
 Yはそのような嘘をよくつくのだった。
 それで、ぼくはその電話をいつもの調子で聞き流すことにして、あとはひたすら自分の身体の熱と吐き気との格闘に精神を集中させたのだった。

 Mと最後に会ったのはいつどこでだっただろう? 通夜の席上でぼくが考えていたのは主にそのことだった。すると、Sの着ているスーツが妙な光沢を持っていて、おかしいと誰かが言い出す。そうなると、Oのネクタイの締め方がおかしいとまた別の誰かが言いはじめる。普段にない形式ばった場所だから、気恥ずかしさと滑稽感が漂っていて、真面目に何かを考えようとすると、すぐ何かに妨げられてしまう。そこにはもちろん、一種不誠実なごまかしがあったとぼくは思う。なんにしろ、肝心なときこそ、どうでもいいことばかりが頭に思い浮かぶものなのだ。
 結局、ぼくは最後にMに会ったときのことを何一つ思い出すことができなかった。というのも、ぼくらはあまりに頻繁に行き来していたので、日時の前後関係がずいぶん錯綜しているのだ。それは後にあらたまってみんなでMの思い出話をした際にも、それぞれのあいだで記憶が違っていることでも窺い知れた。
また、おそらく人間には記憶を合理化しようとする本能があるのだろう。単純なことですら話が噛み合わない場面が多々あった。

 ぼくらが行きつけにしていた飲み屋はF駅を北口に降りて通りをしばらく歩いたのち、裏路地に入るとすぐのところにあるDというバーである。そのバーでぼくは一時期働いていたことがある。なので、マスターにも懇意にしてもらえた。マスターは怪しげな過去を持つひとで、一時期は覆面レスラーをしていたこともある。これは本人がそう言っていただけで、事実は分からない。たしかに筋骨隆々としていて、酒にも強かった。
 マスターが怪しげなせいか、この店に集う常連客には倒錯的な人物が多かった。そもそもマスターの交際相手自体が女性なのか男性の性転換者なのか判断しかねるという有様で、元自衛隊員の演歌歌手や本職は(と自分で言っていた)レゲエダンサーのAV女優などがいた。ちなみにこのAV女優に関しては、ぼくは一本だけ出演ビデオを見たことがあるが、いわゆる企画物で相当にクダらない内容のものだった。この娘は異常なニンフォマニアで、男性の肛門を偏愛しているとかで、ぼくも一度ベッドで指を突っ込まれたことがある。その他にも外国人客の一群がいて、話を聞くと彼らはみなヒッピーのように世界中を渡り歩いた結果、いまは日本で英語教師をしているとのことだった。彼らはみな都合が悪くなると日本語が分からない振りをした。そのときには、それまでは通じていたぼくの英語も通じなくなり、同時にぼくにはとても聞き取れない程のスピードの英語で話しはじめるのだった。そういう素晴らしい特技を持つひとたちだった。
 当時、これはたしかKの提案だったと思うが、ぼくらは毎月仲間内で誕生パーティを開いていた。順番に祝われたひとたちが次の月の幹事を務めるという決まりで、しばらくは続いた。このパーティーはもういまではやっていない。懐かしい思い出のひとつである。
 その誕生パーティのときの写真がある。Mはものもらいの眼帯をしていて、その上にマジックペンで目玉を書いている。MとYが偶然にも似たような黄色のTシャツを着てきて、みんなにネタにされたのもそのときである。店を引きあげたあとの帰り道で、Mが信号待ちしているタクシーのフロントガラスにいきなり飛びかかって、みんなを閉口させたのもそのときのはずだ。
 その写真はいまはもうぼくの手元にはない。通夜のとき、Mの家族にあげてしまった。

 Mの家族についてぼくはMから話を聞いたことがあるだけで、会うのはそのときがはじめてだった。車椅子に乗った父親は、ひどい滑舌の悪さで、終始何かわめいていた。詳しくは忘れたが、これは何かの病気の後遺症で、家族内にも彼の話を完全に理解できるのはひとりもいないとMは言っていた。
 母親は小柄なとても善良そうなひとだった。この夫婦からどうしてMのような頑健な体躯の子供が生まれたのか、本当に不思議でならない。Mの身長は180cmを優に越えていた。それはMの兄も同様で、教養のなさそうな痴呆的な表情もよく似ていた。彼は首筋から顎にいたるまでタトゥーがのぞいていたが、彫り士をしているという話だった。正装姿が妙によそよそしく、不似合いな印象を与えていた。
 妹は母親に似て小柄だった。彼女はアル中患者で、施設の出入りをくり返しているという話だった。なんでも中学のときに神経を患い、その頃は食事のたびに毒が盛られているという妄想にとりつかれ毎回ひと暴れしていたという。男兄弟二人がかりでさえ、押さえつけるのには苦労したよ、とMが語ったことがある。あの華奢な身体に、いかつい男を二人もはねのけるだけ力があるとは思えなかった。
 父親は別としても、Mの家族はその風貌とはまるで違って、みんなこちらがまごつくほどに丁寧な物腰の低い対応でぼくらを迎えてくれた。

 Mは行動のひとだった。彼は他の仲間と同様に、知性や教養を一切持たなかった。彼はどんなところからも生命力のみなぎりを感じ取り、その奔放さを感嘆し賞賛するのだった。なので、当然彼は悪意を持つということを知らなかった。やりがいのない仕事場でくたびれた表情をした同僚たちにも、彼は一種の畏怖を感じていた。そしてそれをぼくら相手に熱弁した。それはたしかにひとつの才能だった。
 一度、酔っ払ったMを介抱しながらF駅前の通りを歩いていたときのことだ、Mは通り過ぎるひと全員に向かって選挙ポスターのような微笑を浮かべて手を振った。Mをなかば担ぐかたちで歩いていたぼくが歩きづらいと文句を言うと、Mは真顔で「イギリスの王室から来訪してきた者として、自分には日本国民に丁寧に挨拶する義務がある」と言った。まったく彼には品位というものが欠けていた。(つづく)


散文(批評随筆小説等) Mの肖像 Copyright んなこたーない 2007-04-16 03:17:41
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