‐産業動物臨床基礎実習‐
士狼(銀)
私が通う大学は、結構、構内が広く、まだ慣れていないせいだとは思うが、時々迷子になったりもする。ついこの間は正門の真逆にある東門から出てしまい、帰り道が分らなくなって困った。
学科で見ると、必修科目は150人程度が同じ教室で学ぶわけであり、目の悪い私は必然的に少し早めに家を出て、前の席を死守しなければならない。前に座りたがる学生も少ないだろうと思っていたら、意外と多い。正直、驚いた。
ところで、「自由科目」という、一応単位は貰えることになっているが、卒業に必要な単位としては含まない、という、少々やっかいな科目がある。履修する・しないは各学生の自由である。
私はこの自由科目の「産業動物臨床基礎実習」を履修することにした。
三時限出席しても一単位しか貰えず、しかもそれは卒業に関係しないのだから非常に効率が悪い。
では何故取ることにしたのか。
この機会を逃すと、暫くは産業動物、つまりは牛や豚、馬、羊に触れ合えないからだ。折角そういった環境にいることができるわけだし、将来を小動物臨床と決めたわけでもない。
もしかしたら自分には産業動物臨床が合っているのかもしれない。
もしかしたら、野生動物に関連する方向に進むのかもしれない。
一つでも多くの可能性を見出したいがために、履修することにした。
実際に接するのは「健康」な動物たちではない。「入院動物」である。
近隣の農家から連れてこられた病気の家畜が集められている。
さて、先日この授業のガイダンスがあり、学籍番号によって二つに組が分けられた。
前半組は実習、後半組は休講。
前半組の友人に、講義・実習内容を聞いた。
「三本脚の奇形子牛」と「喉に心臓がある牛」を使っての、牛の体の各部位の説明だったという。
子牛には上膊から下がない。肩端だけはあるらしい。
私は後半組のため、来週、初めての実習を経験することになる。時間があり、購入が間に合えば、帽子、マスク、ツナギ・白衣、長靴を装備して挑む。
喉に心臓がある牛の咽頭から頸にかけて、この掌を押し当てたらその鼓動がはっきりと分かるのだろうか。
それとも、彼/彼女は、それまで生きることができないのだろうか。
聴診器で肺に空気が入る音を聴いた二年前が懐かしい。
あの時は、名前ではなく数字で呼ばれる生後4か月程の牛が使われていた。
大学病院から帰るシェットランドシープドッグは、飼い主の奥さんにしきりにしがみついて離そうとしない。
よっぽど怖かったのだろうかと、そっと見送ることにする。と、トラックの窓からその長い顔を出し、私を含む数名の一年生を眺め、エンジンの音と共に姿は小さくなっていった。
初老の婦人が連れてきたビーグルは、非常に人懐こく愛らしい。
だが、その姿が、私たち一年生を苦しめる。
学年が上がると、いつか、班単位で世話をしたビーグルを一週間かけて解剖する経験に衝突する。死体を解剖するわけではない。自分が世話をして育てた子を、勉学のために殺すことになる。
それを乗り越えられるか。
乗り越えるしかないのだ。その命を無駄にしないためにも。
実験動物や動物実験の在り方については賛否両論ある。動物愛護団体をはじめとして、多くの「動物愛好者」の方が反対意見を出す。
しかし、私は、実習経験のない医者に診てもらいたいとは思わない。診察にしても手術にしても、最後は知識ではなく、経験と技術と熱意がものをいう。
私は、祖父母の期待を裏切って獣医を志し、親戚一同が医者という環境の中、そういった、経験がものをいう「事態」についての話を聞き、また、手術状況を説明してもらってきた。
獣医も同じではないだろうか。
私は動物が大好きだが、それ以上に、幾つかの犠牲を糧にしてでも救いたいというエゴを持っている。
尊い犠牲の上に習得する知識と技術と、実のある経験があるのだと思う。
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