【小説】老紳士の秘密の部屋
なかがわひろか

「家政婦募集容姿端麗、声に特徴のある女性歓迎」

 貯金はもう少しで底をつく。最早迷う術がないのはよく分かっている。だからと言って、これだけの新聞広告に飛びつくやつが私以外にいるのだろうか。と思っていたら、それなりにいた。私と同世代の女性が(なかには明らかに老けている人もいたが、年齢は書いていなかったので、書いていないほうが悪いと言えるし、もしかしたら年を取っているほうが有利とも言えるかもしれない。何を根拠にしてかは知らないが)集まっていた。容姿端麗、という言葉には目を瞑って、声に特徴がある方、のみを優先してここにやってきた。特に誰に言われたわけでもない。しかし、今の私にはそんなこと言っていられない。どんな声でも頑張れば特徴を出せるはずだ。もう何がなんだか分からない強引な理由に自分を納得させ、ここに来た。
 面接は十時からと書いてあり、待合室には二十人くらいの女性が特に緊張感もなく順番を待っていた。
 十分で終わる人もいるし、三十分くらいかかる人もいて、面接時間はまちまちだ。そして出てくる人は違う出口から出て行くようで、こちらからは一切のその顔は見られない。故にどのような戦略を練ればいいのかも分からない。そんな中で緊張感を保つほうが大変だ。
 それにしても。
 二十人の女性を収容できる部屋が普通にある家なんて初めてだ。しかもそれほど狭さを感じない程度に座ることができる。さらに言うと、みんなが座っている椅子も種類の同じ椅子だ。昔から食器と、家具が同じものをそろえている家はお金持ちが多かったという記憶がある。ここはそれを集大したような家だ。確かに、家政婦もいても申し分ない。家政婦を募集してもいい程度の条件は十分に満たしている。
 と、そんなどうでもいいことを考えて時間をつぶしていた。お金持ちの家であれこれ想像を巡らせても、きっと少し頭が禿げ上がって、口ひげを生やし、葉巻を吸っている初老の紳士が住んでいる、くらいの予想は誰にでもつく。誰にでも予想できる想像をするくらい、退屈な時間は、苦痛でもある。
 やっと自分の番がやってきた。私は満面の笑みを浮かべて(それで容姿端麗を少しでもごまかすために)部屋のドアをノックする。「どうぞ」と声がする。ドアを明けて、就職試験以来の甲高い声で、名前を言って、部屋に入る。
 そこには少し頭が禿げ上がって、口ひげを生やし、面接中にもかかわらず葉巻を吸っている初老の紳士が座っていた。しかし、私がどれだけその老紳士に笑顔を向けても意味はなかった。

 彼は目が見えなかった。

 次の日から、私はその家で家政婦として働くことになった。
 私の採用は驚くほどあっさりと決まった。
 面接で聞かれたことと言えば、家は近いのか、時間はどのくらい働けるのか、給料はこれでいいのか、ということくらいだった。老紳士はその場で私に決定し、待合室に残っている七〜八名の女性に丁重にお詫びを言って、交通費を出してそのまま追い返した。
 私はなんだか分からないまま、しかしとりあえず、就職試験に合格した。貯金の底はまだ見なくてすむと思うと、老紳士の不可解な決定にもそれほど不安を抱くことはなかった。世の中にはいろいろな人がいる。目が見えないのに容姿端麗を求める人もいる。そういうことだ。

 私の仕事は朝九時に家に行き、掃除、洗濯、昼食の準備をする。大きな家ではあるが、使っていない部屋もたくさんあり、老紳士の活動場所は極めて限られているので、掃除にそれほど苦痛はない。もちろん洗濯も老紳士一人分だ。何日か分をまとめてやるほう効率がいいので、週に何回かまとめて洗う。それに関して老紳士は何も文句を言わない。しかも食事にいたっても、お金持ちの割りにグルメではなく、どんぶり物で手早く済ませたいらしく、極めて迅速に終わる。ようするに私の仕事は、これらの作業を午前中極めてゆっくりと丁寧に、何度も見直しをしながら行うのだ。それはそれは丁寧に、じっくりと行う。これなら普通の主婦の方が大変そうだ。嫁入り修行にもならない。
 午後は、食事の後、すぐにお昼寝の時間になる。彼は黙って寝室に行き、二時間くらい横になる。その間私は、仕方がないのでお菓子を作って待つことにした。お菓子なんて作ったこともなかったが、二週間もすればレパートリーも増え、ちょっとしたいいお母さんみたいに作れるようになった。もちろん老紳士と私とでは大しておいしくいただけるわけでもない。三時になったら彼を起こし、ティーブレイクをする。テレビのワイドショーを見ながら、彼は私の作ったお菓子をつまむ。うまい、ともまずい、とも言わない。何十年も連れ添った夫婦みたいだ。時々そう思うことがある。
 晩御飯の買出しに、家の大きなBMWの車を借り出かける。ちなみにこの車は、私の通勤用にも貸し出されたものだ。彼はもちろん車の運転はしない。いつかこういうときのために買っておいたのだろうか。買出しも簡単だ。どんぶり用と夜食用の食材を買い込むだけですぐに終わる。老紳士はお酒も飲まない。いつしか私は決まった時間に質素な食材を買っていく、高級外車に乗る女として周りから見られるようになった。金持ちも楽ではない。
 夕食を一緒に済ませ、食器を洗うと、それで私の一日の仕事は終わりだ。これで一日二万円のお給料が出る。普通のサラリーマンに言ったら袋叩きに合いそうだ。ただ一つ弁解するならば、お金持ちの考えることは普通のサラリーマンが袋叩きをしたくなるくらい、よく分からないということだ。
 
 老紳士は、目が見えない代わりに、家の自分が動く範囲は全て把握している。トイレに行くときも、お風呂に入るときも、どこになにがあるかは全部分かっている。私は彼専用のいろいろな場所に各々に適した物を常に補充しておけばいい。家にいる間は目が見えないことも忘れてしまいそうだ。

 老紳士には一つだけこだわりがあって、シーツだけは毎日洗い立てのものが言いと言う。気持ちは分かる。ホテルのようにぱりっとしたシーツの上で眠れるのは本当に幸せだ。それが毎日できることは、誰にでも共通の喜びだ。なんてことはない。私はそんな老紳士の気持ちに答えようと、シーツだけはいつも完全にぱりっとしたものを用意した。老紳士はそれをとても喜んでくれた。

 私は時々、老紳士の要望で、本を読むことがある。彼はもう小さな頃から目が悪いらしく、絵のついた簡単なものを眺める程度で彼の読書生活は終わっていると言っていた。どんな本がいいか、と聞くと、私が好きな本を、という。私はそれなりに読書をする方だったので、最近流行っている新刊本や、三島由紀夫や谷崎潤一郎の本を読んで聞かせた。谷崎潤一郎の関西弁を読んでいるといつもつまづく。それでも彼は黙ってにっこりと微笑みながらじっと聞いている。特に感想も言わない。彼が一番興味を示したのは、現代の女子高生の心を描いたようなよくある携帯小説だ。こんなものに彼が興味を示すのが私には意外だったが、彼はとても真面目に聞き入っていた。
 そんな風に私の毎日は過ぎる。すっかり慣れてしまって、今ではこの家で暮らす方がリラックスできる。なんせ老紳士は用があるときにしか私を呼ばない。そしてその用はほとんど、食事のときくらいだ。

 ただ、一度だけ、老紳士に声を荒げて怒られたことがある。それはとてもか細い声だったが、普段小さな音の中で暮らしている私たちにとっては革命的な音の大きさだった。

 その日私は、部屋の掃除をいつものように早く済ませ、いつものようにやることがなくなっていた。この家には他にも使っていない部屋がいくつもある。どうせなら一部屋ずつきれいにしてみるのも悪くない。使わなくて、また汚れたら、またきれいにすればいいだけの話だ。私は二階の一番奥にある部屋から掃除を始めようとドアを開けた。その時だった。私が二階に上がる足音を聞いていたのか、後ろから大きなか細い声(まさにそんな声だった)で私をしかったのだ。その部屋には絶対に入ってはいけない、と。私は本当に驚いて、事情を説明したが、彼は一言、余計なことはしなくていい、と言って私を追いやった。私はそれ以来その部屋にも、二階にすら行っていない。彼を怒らせることでメリットは何もないし、何よりここでの生活が気に入っている。みすみす逃す必要もない。
 今日のことはなかったことにして、私は二度とそこには立ち入らないように心に決めた。掃除で余った時間は、適度に読書でもしていようと思った。

 時々私たちは二人で話すこともあった。それは多くは食事の時間だが、老紳士はいつもかきこむようにどんぶりをすぐに平らげてしまう。だからいつもはそれほど話すことはないのだが、時々、ふと思い出したように、私たちは言葉を交わす。それは今日の天気のことであったり、今日読んだ本の感想だったり、だ。

 私はここに勤めだしてからのずっと気になっていた質問を、ある日の食後にぶつけた。ここでの採用を決めた例の面接の話だ。彼は私にいくつかの質問をしただけで、他の面接者を追い返してしまった。私は内心ほっと思いながらも、いつもどこかでひっかかっていた。なぜ私なのだろう。ずっとそう思っていた。
 老紳士は私の質問に、少し照れたような顔を浮かべて、とても恥ずかしそうにこう言った。

 「母の声に似ていたんだ。」
 老紳士の母親は、彼が三歳の頃に病気で亡くなった。
 彼女は亡くなる直前まで老紳士に絵本を読み聞かせていたようだ。
 彼にとって母親の思い出はそれしか残っていない。けれど、母親の声は、今でも鮮明に耳に残っているのだという。
 その声に私の声が似ていた。だから私はここで働くことになった。

 「容姿端麗、というのはあれだよ。僕も一応男だからね。」

 少し意味深な含み笑いをしながら彼はそう言った。確かに目が見えなくても、そこにいる異性が美しいと想像するのは楽しいだろう。実際の私はどうかとしても。

 時々私たちはそんな風に他愛のないことを話した。二階の奥の部屋については相変わらずタブーであったが、それ以外の会話はとてものんびり、だけど少し意味深で終わっていた。しかしそれも悪くない。そんな雰囲気も、この家に合っている気がした。

 季節が過ぎ、冬になった。といっても、今年は暖冬だった。雪も大して降らない。毎日冬の証をどこかに探してみるが、残念ながら、今のところどこにも見当たらない。それでも朝は冷える。私は、起きてきたばかりの老紳士に温かい飲み物をすぐに出せるように、それまでよりも少し早めに家を出ることにした。
 温かい紅茶を入れて、老紳士を迎えると、彼は寝起きの顔でにっこり笑って、ありがとうと言った。私の家政婦ぶりも大分板に付いてきた。

 その三日後だった。

 老紳士は心筋梗塞で突然死んだ。

 その日の朝も私はいつもより早めに家に向かった。台所で紅茶を沸かしていても、なかなか老紳士が起きてこないので、私は彼の部屋まで起こしに行った。
 布団の中で、彼は眠るように死んでいた。いやきっと眠っていてそのまま死んだのだろう。不思議と私はそれほど驚かなかった。なんとなく彼にお似合いの死に方の様な気がした。
 彼は経済界に影響を及ぼすような大人物だった。もちろんそれを知ったのは彼が亡くなってからだ。

 彼の葬儀はそれはそれは大層に行われた。
 どこどこの大会社の会長とか、次期総裁候補の政治家とか、普段私の周りでは空想の生き物でしかない彼等がたっぷりと来て、同じような挨拶を言って去って行った。
 
 私は、彼の親類だという人から、残りのアルバイト代を受け取って、「申し訳ないが、給料は今までの倍出すから、家の掃除をしてくれないか。」と頼まれた。
 主を失った家は、取り壊され、売却されるらしい。確かにもう大分ガタが来ている。断る理由もなく、私は一つ一つ老紳士の思い出を片付け始めた。

 といっても彼は物を集めるという習慣がない。彼の部屋の片付けはすぐに終わってしまった。彼の痕跡を示すものを片付けるのに半日もかからなかった。

 しかし、この家には私が入ってはいけない部屋があった。
 おとなしい老紳士が剣幕をたててか細い声で私を叱った場所だ。
 いつしか私はその部屋を秘密の間と呼ぶようになっていた。

 もちろん、この家の片付けは全て私が任されているから、主亡き今、どの部屋に入っても誰も文句は言わない。
 しかし、そう思いながらも意を決して、私は二階の奥にある部屋のドアノブを握った。えい、そう一声かけて中に入った。

 そこには一つの棺桶があった。

 他には何にもない。
 ただ、一つの棺桶があった。

 私はまさに穴が開くくらいと言っていいくらいに、その物体を見た。 
 しかし、それは明らかに棺桶であった。
 私はおそるおそるその棺桶を開いてみる。
 中には小さなお人形を抱いている、大きなお人形がいた。
 着ている服も大分色あせていたけれど、その人形の顔はとても穏やかだった。
 そして私は気づいた。あの時、なぜ老紳士が怒ったのかに。

 ここは彼と彼の母親の唯一の思い出の場所だったのだ。
 死の直前まで彼に絵本を読み聞かせていた彼の母親との。
 彼は、小さくてまだそのことをちゃんと理解できていなかった。自分の母親のことを理解できていなかった。
 何年か経った後に、やっと気づいたのだろう。そして、その映像を、唯一覚えている映像を、こうやって形に残していたのだ。
 何もないこの部屋は、老紳士の最後の母と過ごした、もっとも大切な場所だったのだ。

 私は、いつしか泣いていた。
 か細い声で(きっともう死を予感していたのだろう)私を怒鳴った老紳士を。
 母親の声に似ていると言った老紳士を、思い出して。

 私は、親類の人に、あの部屋だけは私にはどうしようもないから、皆さんでなんとかしてほしい、できれば、一緒にお骨と埋めてあげて欲しいと言い残し、その場を去った。
 もらったBMWはそのままにして。

 私はとある老紳士を、過ごした三ヶ月を、今も不思議に思う。それはなんと言うかとても不思議な日々だった。
 盲目の老紳士と過ごした、不思議な時間だった。


散文(批評随筆小説等) 【小説】老紳士の秘密の部屋 Copyright なかがわひろか 2007-04-11 02:21:29
notebook Home