【小説】読書
なかがわひろか
長い髪は黒く時折そのページにすがりつくように、さりげなく垂れる。少し邪魔そうに髪をかき上げながら、彼女はまた新しいページをめくる。
彼女は大きくて、少し茶色の混じった瞳をその一文字一文字に落としながら、それらを一つの単語にし、文節にし、読点が来たら少しその視線を休め、また句点が来るまで何度かそれを繰り返す。そうしているうちに、物語は進んでいき、彼女をどんどん引き込ませていく。
時々人工的な音が鳴り、彼女の読書は中断する。それは携帯のアラームであったり、新聞の集金であったり、鳩時計の鳴る音であったりする。その度に彼女の瞳を奪い合う言葉たちは少し落胆するように、彼女を少しの間手放す。彼女はそれらの人工的な音が示す行動でどうしても彼女が対応しなければならないものに対して、的確に対応していく。しかし、彼女の頭の中には今まで束ねて来た言葉をつなぎ合わせ、一つの壮大な(彼女は読書をする際に、いつも壮大な物語を選んだ)物語を作り出していた。新聞の集金屋さんと軽い会話をするときも、それは中断されることはなく、彼女の脳の片隅に絶えず浮遊している。
読書に戻った彼女は、さっきと同じ体勢を探していたが、全く同じにはならないことに多少不満を覚えた。それでも彼女は次の言葉たちを求めていた。さっきとは少し読みにくい体勢になってしまっていたが、彼女はそれを了承した。それよりも壮大な物語の続きを求めていた。
彼女はページをめくる。ページに書かれた文字たちは、我先にと彼女の瞳に入っていこうとするが、彼女はあくまで冷静に、それらを整列させ、ひとまとめの言葉にして頭の中に刻み込んでいく。ひねくれた難解な表現のところは、何度か読み返す。それは彼女の瞳をとどめておくためのこの世にある唯一の手段の様に思えた。
三十分ほど経って、彼女は本から目を離す。その瞳には多少の落胆があるように思える。思っていたほどその本は劇的な物語を歩むことができなかったようだ。彼女は少し迷うように、そして誰かに助けを求めるように、周りの景色に目をやる。だが、この決断は彼女自身にしか決められない。外の景色は、ただ太陽が照り、風が穏やかで、春を証明しているにすぎない。彼女の読書について何かを言及するには、それらの景色はあまりにも日常を作り上げすぎていた。彼らには何も決断できない。
彼女は残りのページ数を確認する。薬指に小さなあかぎれがある右手でページをぱらぱらとめくる。ぱらぱらとめくられていくページたちは、何か必死に彼女を引き留めようと画策しているようだったが、そのスピードはあまりにも速すぎて、彼らにとってはあまりにも時間がなさ過ぎた。
彼女が確かめたページ数は絶望的に多かった。このまま続けて読むには、時間がかかりすぎる。また、彼女はその物語の結末がどうなるのか、多少の予想はついていた。考えられるだけの劇的な展開を想像してみたが、もしその通りになったとしてもそれは興味を惹かれるような内容ではないことはよく分かりすぎるほど分かっていた。
彼女はしおりを挟むことなくその本を閉じた。彼女の決断はその物語を最後まで読むことを止める、ただそれだけだった。
彼女に読まれることのなかった言葉たちは、おそらく永遠にその角張った立方体の中に閉ざされ、日の光を見ることはない。彼女はその物語の描かれた本を本棚の奥の方に入れ、また新しい物語が描かれているであろう本を机の上に積み上げられた本の塔から抜き取った。
彼女はその本を机の上にすぐに手に取れるように置いて、紅茶を入れに台所へ急いだ。
新しい物語を紡ぐ言葉たちは、彼女の目に触れるのを今か今かと待ち望んでいる。
彼女が湯気の立った紅茶を手に部屋に戻ってくる。
外の景色は、変わらず春を彩っている。