半年くらい前の投稿なんですが、
フジシロ武さんの「お手軽詩人の作り方」ってのがあって、
当時読んだときは単純にアイロニカルで面白いな〜と思ったんです。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=91163
でもふと思いました。
この文中に出てくる「詩的語」「詩的フレーズ」って、
おそらく読者の解釈の過程で、過去の経験と結びつきやすく、
またイメージを喚起したり、感情を動かしやすい言葉だな〜と。
たとえば、人と会話する(あるいは詩作の)ときって、
その内容を聞いていると思いますよね。少なくとも、
私はそう思いこんでました。でも「桜が咲いたね」っていう言葉を
投げかけられたとき、聞いてる側(読者)が想起するのは
自分ちの近所の公園の桜だったり
小学校の入学式の日に一緒に撮った桜だったり
あるいは先日の花見で呑んだ酒とか
ベロンベロンに酔っぱらった友人の醜態とか
ってことが多々あるんだろうな。
だって、自分が聞いてるときそうだもん。
にもかかわらず、自分自身が話者になって(あるいは詩作の際)
「桜が咲いたね」と言ったとき、相手は自分が見た桜を
見ているんだと思いこんでいたり、あるいは、その桜を
見せるためにいろんな言葉を使って情景を説明しようと
したりする。という自分の創作のくせに気づいた。
楽しい会話とか、いい詩を書くって、どういうことか
いまだ分からない。でも、言葉にまつわるイメージは、
言葉を受け取る人の数だけある。会話したり詩を読んだり
する人が求めているのは、話者だったり詩人が見たものを
そのまんま見せてもらうことではないかもしれない。
てなことを今更、意識しました、
というやや恥ずかしい話です。