俳句の授業①
カスラ
咳をしても一人
有名な尾崎放哉の句であり、筆者の年代では、この句とともに俳句を初めて手にしたのは、芭蕉などと一緒に中学の国語の教科書の中にてである。今日は遠い記憶をたよりに中学時代の授業の中の詩歌を思い出してみたい。
尾崎放哉はその奔放な性格のためか、東大法学部卒のエリートでありながら社会的地位や家族を捨てて、晩年孤独のうちに死んだ明治・大正期の俳人である。14歳の中坊だった当時、この国語の授業中、同時に知り得た芭蕉の天の川を詠んだ、
荒海や佐渡に横たふ天の川
の、『横たふ』に感銘を受けた。筆者の通った当時の地方(釧路市)の中学は地元では一番の進学校で、同級生からは15名もの東大現役合格者がいたから、授業も受験に特化した何か権威的なものが付きまとい好きではなかった。釧路市は濃霧で有名な街であるから、銀河の中心方向の星々の密集した天の川など、しみじみ眺めた生徒はいなかったのだろう。優秀な同級生たちから脱落し、独りアウトローを気取るしかなかった筆者は当時、天体観測に夢中で自作の望遠鏡まで造っていたから、天の川が横たわっているのは実感としてよく知っていた。
国語の担当教官はこの句の芭蕉の見るコスミックなスケール感と同時に、彼の旅の道順、理由などの紋切り型の授業を推し進めてゆくなかでこの句の命、『横たふ』にはついにぞふれられることはなかった。例えば『佐渡に見上ぐる天の川』だったらどうであろう。『まばたく』だったらどうであったろう。蝉の声を、岩に『響く』とか『こだます』『わたる』ではなく『しみいる』と詠むのが芭蕉なのであろうからやはり、『横たふ』に芭蕉の眼はあったのだと今も思う。
こんなふうに当時芭蕉を自分なりに見ていたが、放哉のこの異常に短い、季語もなく、五・七のリズムさえない自由律といわれる句がまるでわからなかった。句中に筆者の名前(一人)が含まれていたからこの先生、筆者に真っ先に当てて聞いてくる。『この作者はどんな心情でこの句を詠んでいるか?』というその問には至極真っ当に、作者の境遇の孤独を答えるのが正解として要求されていた。で、当時の優秀なクラスメートからしたら理解不能のアウトローには独りが、我、独りのどこが孤独なのか、これまるで分かれなかったのである。授業では放哉が暗くて狭い、畳み敷きの部屋に独り座していて、丸いちゃぶ台が見える。その上には縁の欠けた湯飲み茶碗がひとつあり、左手が茶碗に届いた瞬間、咳こんだのが見えたというようなことを答えた。だが孤独ではない、このオジサン、何かとひとり語らい交信していて、顔に微笑みさえ見えたような気がなぜかした。確かに自分の咳込む音の反響を聴いていて、その中に自虐の苦笑いではない、澄んだ音が返って来るのを聴いている。それほどの静寂の中にやすらっている。余計なことは言うべきではなかったのか、訝しい顔をされ、次に問いを優秀なクラスメートに回し、その級友は、授業の進行を乱す発言を修正するがごとく、当時放哉は結核にかかっていて、死の床の中で誰ひとり家族の介護者もなく、孤独の寂寥のうちに咳込んでいるのだという、模範解答で先生の予定範囲の真ん中に解答を届けた。
今、この歳となってこの句の味わいが分かってきた。孤独と、我、独り在る。この寂寥とはちがう静寂が分かるのである。自由律の俳句であるとされるがみまごうことない、詩である。筆者の知り得る最も短い詩。どうであろう、この中にも起承転結がちゃんとある。日本語の、とくに詩歌においてやはり『て』『に』『を』『は』と『の』の助詞に魂は宿るのであろう。咳をしても、の『も』が転回であり、『は』にも『、』にも置き換え不可能のこの詩の命がある。放哉の有名な句にこのような作もある。
入れものが無い両手で受ける
…つづく…