*波止場ポート
チグトセ

夜が明けると波止場ポートの灯台は
徐々に群青の色が抜け、
映えのある黄緑色に落ち着いた。

僕たちに対して親密な光はここにようやく「始まり」というストーリーを送り、次に「終わり」というストーリーが送り込まれるまでには、まだずいぶんと時間がある。
決して長くはなく、それほど短くもない、ひどく中性的な長さの時間。
公衆トイレの正面入り口は落書きがされていて、
赤いスプレーの染みが土に落ちて固まっている。
「何のことやら」
僕は苦笑する。
もちろん、それは公園の隅にある立派な公衆トイレなので、
こんな落書きをすれば多少は何かしら問題があるだろうけれど、
とにかくそこには赤い文字で「セックスレス」と書かれてあった。


「どう? あの落書き」
僕が戻ってくると椎は目を輝かせて訊いてきた。
「わたしセンスあると思わない?」
「センスっていうか、ストーリーありすぎ。誰がどんなつもりで書いたんだよって思わず考えちまうぞ」
椎の隣に腰を下ろし、僕が答えると彼女は満足げにうなずいて、立ち上がって大きく伸びをした。
「セックスレス……わたしのお気に入りの言葉。それをね、赤いスプレーで書いたっていうのがポイントね。わたしの血液と同じ赤」
椎は指を拡げて、起き抜けの太陽にかざしてみせた。
「……なんで血管ってこんな色してんだろ」
「そのまんま赤かったら気持ち悪いじゃん」
僕は首を捻って骨をコキッと鳴らしてみた。コキッと鳴らそうと思ったのにバキッという音がして、たまげた。
「気持ち悪いってことないよー。こんな黒なのか紺なのか灰色なのかよくわかんない色にするんだったらさ、赤のままでよかったのに」
「だからさ、もし血管が赤かったら、傷ができて出血したときわかりにくいだろ。だからあえてだよあえて。生物の進化の証」
そっか。椎はきょとんとした顔で納得した。赤好きなんだけどなー。呟きながら、へっくしょん、とくしゃみをした。
椎は、僕がそろそろ帰ろうとか終わりにしようとか言うと不機嫌になるので(理由はわからない)、僕は彼女から終わりを切り出すのを待たなければならなかった。
黙って水平線を眺める。
目の前に広がる円形ステージのようなコンクリートの段は、綴れ織りのように繋ぎ合わさってゆるやかに低くなっていく。その先に海があり、埋め立て地の鉄塔があり、どこよりも早い朝があった。
そこは、空と海の境界線。
宇宙と地球の境界線。
いや、空は地球の一部だろうか。
「ねえ、空って地球なの、宇宙なの?」
と椎が言い、僕は思考を見抜かれたのかと思ってぎょっとした。
椎が怪訝そうな顔で僕の目をのぞき込んでくるので僕は今のテレパシー? と言ったら椎はますます眉をひそめて何のこと? と訊ねる。
「そうじゃなくて地球と宇宙はさ……」
どうやら通じてないらしい。
僕は改めて視線を水平線に移動して考える。
「うーん……。星ってたぶん固体を指す名称だろうから、やっぱ空は宇宙に含まれるのかなあ。でもそうすると、下手すりゃこの周りの空気、全部宇宙ってことになっちゃうしなあ……」
椎は、あ、わかった。と言って手を叩いた。
「空は地球なんだよ」
「そうなの?」
僕は、やや斜め後方に立つ椎を見上げる。椎の立っている場所は、僕の座っている場所よりも一段高いので、ここからだと制服のスカートのギザギザの中身がギリギリ見えそうだった。
「だってね、もし空が宇宙だったら、飛行機に乗った人たちはみんな宇宙旅行をしたことになっちゃうでしょ」
水色ねえ……。
「だから、空は地球」
パンツの中身は地球? それとも宇宙?
「でもそうすると……」
そりゃやっぱり宇宙だろう。
「地球と宇宙の境界はここからじゃ、絶対に見えないんだね……」
椎がこちらの視線に気づく前に僕は水平線に目を戻した。
どうやら今度はテレパシーできなかったらしい。
椎はもう一度伸びをして、ついでに大きなあくびを朝に響かせた。
僕はもう一度、心の中でうなずいた。
そりゃやっぱり宇宙だろう。何せ、人が地球にやってくる場所なんだから。


椎がねーそろそろ帰ろうよーと言ったのはそれから一時間もあとだった。
そろそろ帰ろうよーはずいぶんと前からこっちの台詞だったが皆までは言うまい。
僕たちは敷いていたマットの耳を持つと、のろのろとそれを、すぐそこの体育館倉庫まで運んだ。立派な私立高校の立派な体育館のくせに、扉の一つに鍵がついていないのを椎が知っていたのは椎がそこの生徒だからで、椎は万が一(マットを運び出すのを)警備員に見つかってもわたしが制服を着ている限り大丈夫、と言っていたがやはり見つかっていたら大丈夫ではなかっただろう。これまた鍵の壊れた体育館倉庫の扉を開け、そこまではずいぶんと慎重に、静かに行ったのに、最後の最後でマットを放り投げどがしゃーんと、派手な音を立てて中にあったいろんなものをなぎ倒した。二人で顔を見合わせ、次の瞬間全力疾走、元居た海辺の公園まで戻ると同時に噴き出して、声を上げて笑った。


「楽しかったね、キャンプ」
帰り道、原チャリの後部座席(そんなものはないが)で椎がぽつり、と呟いた。
波止場ポートにさよならを告げたのはそれからさらに一時間後のことで、その間僕たちは黙々と「キャンプ」の後片付けをした。
「わたしね、ドラえもんに一つだけ道具もらえるなら絶対後片付けロボット」
「なんでだよ。そんなん、絶対どこでもドアだろ」
さすがに疲れていたので、その話題はそれ以上広がることはなく、ゆるやかに空中に溶けていった。
「ねえ、帰ったらわたし、もう一回寝る。硬いんだもん、マットも樫の膝も」
悪かったな。
けど、同意見。俺も帰ったら寝たい。

時速二十キロの快速原動機付自転車は朝の木漏れ日の中を進む。
行き先は、俺んち。


散文(批評随筆小説等) *波止場ポート Copyright チグトセ 2007-04-05 05:42:58
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