ダニエルは飛び込んだ!
ブライアン

 崖のふちに立ち、足の下を眺めた。吹いてもいない風が、体を崖の下へ突き落とそうとする。思わず後方へ重心を移動させる。視界が、下から上へと上がる。そこには青く透明な空があった。

 大学時代の友人が書いた短い小説を思い出した。主人公はダニエルという年老いた男。彼は、今まさに、崖の下へ飛び込もうとしていた。彼は、彼の住んでいた町を捨て、新大陸へと旅立つ決意をしていたのだ。
 ダニエルはそのための準備を整えていた。何度も飛び込む練習をしていたし、飛び込みに関する書籍も読んだ。誰かに伝えるための台詞も完全に暗記していた。
 だが、今、本番を迎えようとしているこの瞬間に、彼は怯えた。今までの決意が失われていくように、飛び込むことを恐れた。失敗することを恐れた。新大陸たる存在を疑い、彼はすべてを失うことで、失うことすらも失うのではないかという、恐怖に駆られていた。練習した台詞も、飛び込みも、すべてが崖の下に閉じ込められてしまうのではないかと、ダニエルは思うのだ。

遠近差が絶対になるのは、その設定が地表を離れることで成り立つ。すなわち、絶対の隔離性、絶対の途絶性という心理的な分離感に基づいてされることであるから、それが定まるときは、生命論理から見ての絶対の客地、あるいは確かな安全地帯となる意味を持つことができる
「地の眼・宙の眼」 小町谷朝生
  

 田園都市線の通勤ラッシュ。見知らぬ者同士が、ピッタリと体をくっつけあっている。見知らぬ人が目の前に押し付けられる。これほど近い存在に対して、「絶対の途絶性」を抱く。足を見つけられても、体重をかけられても、何も感じない。誰も何も言わない。人がそこに存在していないかのようだ。
 渋谷駅に着くと、扉から一気に人々の姿が拡散されていく。その景色に一役買いながら、個々の存在が「絶対の途絶性」の集合によって都市が形成されていくのだ、という思いを抱かずにはいられない。
 都市では、無感覚こそが「確かな安全地帯」であり、すぐ隣の人も、遠くの見えない人も心理的な遠近差において、大差はない。人々は、都市形成によって、「地表を離れ」世界と断絶し、「確かな安全地帯」を作り上げた。それは、自由自在に途絶性を獲得することであった。

 ダニエルは昨日の決意が虚しく崩れていくことにさえ苦しんだ。苦しみや悲しみの感じない決意とは、同じ決意であっても「似て非なるもの」なのだ。今、この場には苦しみも悲しみも存在し、飛び込むことの恐怖が、ダニエルを大地に縛り付ける。
 昨日の決意が、ダニエルから「確たる安全地帯」を奪い取ってしまった。ダニエルは崖の上で、恐怖、崩れていく決意に対する悲しみ、苦しみを噛み締める。噛み締めることは押さえつけることでしかない。その堤防は崩壊する。崩壊した後、ダニエルは無様に泣き崩れることしかできない。そうなればもはや、泣き声を抑えることもできない。ダニエルは泣くこと以外の選択肢を失うのだ。

 
脳には<作って見る>能力が確かにあると言える。特に必要とされるものだけが「見えてきてよい」という作業姿勢に入る
「地の眼・宙の眼」 小町谷朝生

  
 泣いているダニエルに襲い掛かる白い霧と一陣の風。ダニエルは目を閉じる。すべてが過ぎ去ったように思えたダニエルは、再び目を開く。そこには、先ほどまではなかった二人掛けの白いテーブルセットが置かれていた。そして、一人の少女がいた。
 霧とともに現れた少女。少女に促されたダニエルは椅子に座ろうとするが、椅子は宙に浮いている。ふわふわと、地表から解き放たれた椅子であったのだ。驚くダニエルに「気にしないで」と少女は初めて声を発した。

 見えないが、強く懐かしい存在を感じることがよくある。ひどく強い感覚。3年ほど前か、いや、おそらくもっと昔の夏だ。初めて意識的にその存在に気がついた。霊と言えば馬鹿馬鹿しくも感じる。ただ、その存在は視覚で捉えることができない存在だった。
 世界中に満たされた見えない存在を感じると、自分も同様に世界に拡散されている存在なのだ、と思えた。
 地元の山の上から実家を眺める。湿度の高い盆地は、緑の田に一面占拠されている。青空と言えば言えなくもない、雲の多い日だった。ちょくちょく太陽は雲の陰に隠れている。そのたびに変化する生まれた土地の景色は、もっと、あらゆる存在に気がついていたのだろうか。
 目では見えなかった。だが、存在は確かだった。それは「見えてきてよいもの」ではなかった。脳はその存在を隠した。それを「見えてきてよい」とすると、人は一歩も歩けなくなるほどの情報の前で、立ち止まり、怯えることしかできなくなるのだ。
 高度に発達した視覚世界だからこそ、存在するものでも「見えてよいもの」としない脳の処理能力に反論はない。しかし、見えないものでも信じられるほどくらいの、生活の余裕さえも取り除かれていく。
 人はよく真実を称える。だが、その真実は中途半端なもので、脳に捏造されるがままのものなのかもしれない。

 少女とダニエルは会話をする。少女にとって、ダニエルが少々変わっていることは大して気にならないようだった。つじつまの合わない問答にも、答えにならない質問にも、あらゆるものを拒絶する沈黙にも、少女がダニエルを見つめる眼差しに変化はなかった。
 ダニエルは、少女を見、初めて世界を手に入れたのかもしれない。小さな世界だ。彼女が変わらずに見つめてくれる眼差しだけの世界。
 自分の言葉が、宙を漂い自らに一方的に戻ってくるものではなくなった。「地表から離れ」、「絶対の途絶性」による「確たる安全地帯」ではない世界だった。
 少女は人であった。ダニエルが立ち上がると、そこには少女が存在していた。少女が存在しているから、ダニエルは歌を歌った。少女は、ダニエルが歌う歌を聴くのだった。

 
目立つとは、地上にある状態から、宙に立つ状態だと、読みおこされる。つまり刺激の強さに対応して、地面から始まって宙に浮かぶまでのいろいろな反応が呼び起こされる、各段階の目立ち方があるわけだ。いずれにしても、目立ちは地面からの離別という結論になりそうである。
「地の眼・宙の眼」  小町谷朝生 


 会社員になってから初めて感じた違和感は、速断、速決だった。さまざまな情報が過密する中で、速断、速決を強いられた。周囲はそれに対して、鋭敏に対応していた。会話からポツンと取り残されて、過ぎ去った議題を悶々と一人考え込んでいた。
 脳が効率的であろうとすれば、何かと比較し、「目立つ」ことが重要になってくる。都市は効率的であろうとする。速断、速決しなければいけない。ファーストフード、自動販売機。「目立つ」ことで商品その物の価値は上がる。それは、速断、速決しやすくなるからだ。
 速断、速決すると言うことは、もしくは、人間の純粋な反応なのだろうか。「地表から離れる」ことで「確たる安全地帯」を確立しようとする、人間の逃亡原理であるように思えるのだ。「宙に立つ」という「目立つ」ものが「地表を離れる」「確たる安全地帯」であるかのように、もっとも「見えてきてよい」ものであると、脳が判断する。
 「確たる安全地帯」への逃亡は、速断、速決を可能とする。

 
重力の引っ張りがなかったならば、人間の今の視覚世界は存在しなかったのではないかということについてだ
「地の眼・宙の眼」  小町谷朝生

  
 速断、速決は「目立つ」という地上からの逃亡を安易に受け入れる。なぜならば、それを待ち望んでいたからだ。宙に浮いた「目立つ」ものは大地からの重力をすり抜ける。人はそれにあこがれるのだ。ゆえに「目立つ」ものへと思いを馳せる。
 二本の足で立ち、歩き、重力でに引っ張られることで、地と宙の中間に存在する「視界」が生まれる。視界は重力からの逃亡であった。だが、それは二本足で立つという不安定な姿が、可能にしたに過ぎない。人は重力から逃れたわけではない。
 重力は常に下向きの力を加える。「目立つ」ことへの逃亡は、重力の束縛という根本的な力があったから生まれたものだ。完全な宙への逃亡は、足との決別である。
 重力を失った視覚は、体と分裂する。重力を持たない、宙に浮いた光だけを信じることしかできないのだ。
 それは、ないものも存在させれる感覚となる。

 少女が消えた世界にダニエルは立っていた。少女は確かに消えてしまったが、存在していた。少女からもらった髪留めをダニエルは握っている。そして、ダニエルは人が来るのを待った。
 昨日と今日が、似て非なるものであるのと同様に、決意の言葉が変わらずとも、似て非なるものである。ダニエルの嫌いな犬を連れてきた男が、崖に現れる。ダニエルは少々の忠告をその男にすると、昨日の決意と似て非なる決意を宣言する。
 ダニエルは新大陸へと飛び込んだ。

 
感覚における新大陸の発見は、大地感覚に支えられて実現されることだ
「地の眼・宙の眼」  小町谷朝生


散文(批評随筆小説等) ダニエルは飛び込んだ! Copyright ブライアン 2007-03-31 15:53:59
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