印象 : 1
安部行人
大きな通りをひとつ東に越え、いくつかの角を曲がったところにその店はある。
狭い階段をあがり、ガラスをはめ込んだ扉を押すと、ドアベルが小さく鳴って客たちを迎え入れる。決して広くはなく、また建物の二階でありながら窓もないため、眼を惑わせるなにものもない。照明は雑誌が読める程度には明るいが、それ以上ではない。大声で話すような客がいないので、店はいつも好ましい静けさのうちにある。
夏の初めのある夕暮れ時、仕事を終えて部屋に帰る途中で、わたしはいつものようにその店を訪れた。黄色い灯りの下で、客たちの煙草の煙が薄くたなびき、控えめに交わされる会話の隙間に消えていくのが見えた。
その日は普段よりも人が多く、わたしは店の中心のテーブルへ案内された。わたしは壁際の方が好きだった――周りじゅうから見られているような気分で食事をしたいとはなかなか思えない。
しかし店の都合とあってはやむを得ず、わたしは皿に向かいながら、どこということはなしに店の中を眺めていた。
その男は隅のテーブルで食事をとっていた。なにかの雑誌に目をやりながら、手だけがゆっくりとした機械のように動いていた。どこか無作法に見えながら、その実ほとんど音を立てていなかった。
ほかの客たちと変わるところのない、どこの通りや仕事場でも見かけるような人物だった。だがわたしはなぜか興味を惹かれ、ビールや煙草のかたわら、さりげなくかれを観察した。
年齢はおそらく三十代の半ばであろうが、なにかの加減でもっと若いようにも見えた。その顔は若々しくもあり、またひどく老け込んでいるようでもあった。ほとんど変化しない表情には、消すことのできない疲れが感じられた。仕事や人づきあいのためだけではなく、なにかそういったものを越えてしまった疲労が、かれを無表情にしていた。
かれは食事を終えると、無言で手を挙げてウェイターを呼び、勘定を済ませた。それから静かに席を立ち、左手に雑誌を下げてわたしの前を通った。
わたしはその雑誌に目を奪われた。それはかなり専門的なもので部数も少なく、どこにでも読者がいる、というたぐいの雑誌ではなかった。そしてわたしもまた、その雑誌の、おそらくは数少ないであろう読者のひとりだった。
こちらの視線に気づいたのか、かれが静かにわたしの方を見た。
わたしは思い切って声をかけ、雑誌のことを尋ねた。
かれは少しばかり目を見開き、軽く引きつったような笑みを見せて口を開いた。
わたしはそのようにして、時おりその店でかれと話すようになったのだった。