たかぼ

私はまだ一度も夢を見たことがない。

いや正確には見ているのかもしれないが憶えていないのだ。何かを見たかもしれないという程度の感覚も一度も味わったことがない。学童になり友人達が夢の話をするのを聞くようになってからは自分だけが取り残されたようで寂しくなった。初めの頃は何の話なのか全く理解すらできなかった。私にとって眠りとは完全な空になるようなものだったからだ。私にとって夢とは、例えるなら生来盲目の人の見る風景、聾の人の聞く音楽のようなものかもしれない。そんな私の事情を知った親はたいへん不安に思い、私を連れて病院巡りをすることになる。そして或る精神科病院を受診したとき一つの事実が明らかになった。私はその病院で頭皮に脳波測定の電極を装着したまま一晩を過ごすことになった。翌日来院した親とともに私は検査結果を聞いた。それは私にとって驚くべきものであった。つまりそれは私は夢を見ているという結果であった。私は唖然とし、親は安堵のため泣き出す始末であった。しかし、と医師は続けた。問題はどうしてその事を憶えていないのか、そしてどうすれば夢を思い出すことができるようになるかが分からない事なのです、と。しかしその後は、もう親はそれほど心配しなくなった。夢など思い出せなくても生活に支障を来すものではないし、夢など元々何の役にも立たないではないか。この子が特別な欠陥のある人間ではないと分かっただけで充分だ、と。しかし親の安心とは裏腹に私の不安は以前よりも強くなっていった。そもそも夢を見ていないのなら構わない。もともと眠りとは空になることだと思っていたのだから。しかし夢を見ているが思い出せないのは気になる。しかも生まれてこのかた一度もである。夢を見ているときは眼球が激しく動くと言われる。ある時は親に一晩中付き添って貰い眼球が動いたときに起こして貰ったりした。もちろん何の記憶もなかったが。

言いしれぬ不安を抱えたままそれでも月日は流れ、夢の記憶が無い、ということ以外は特に記憶力に障害はなく、希望の大学に入学し、そこで出会った女性と恋に落ちた。彼女とは社会人となった後に結婚した。やがて妊娠。そして無事に長男の誕生、となる筈だった。常位胎盤早期剥離と言うのだそうだ、それは。それは突然やってきた。出産を約一ヶ月後に控えた或る早朝、妻は突然の激痛に目を覚ました。少し早い陣痛だろうか。初めての出産で私も妻も自信がない。陰部からは少量だが出血もあるようだ。妻の表情は次第に苦悶状態になっていった。とにかく病院に行かなくては、と車を飛ばす。予め病院に電話を入れておいたおかげで込み合っている救急外来を素通りし、ストレッチャーに乗せられた妻は産婦人科病棟に運ばれた。ご主人様はこちらでお待ち下さい、と面談室と書かれた部屋に通された。まだ眠そうな顔の医師が一人診察室に入って行くのが見えた。しばらくしてその医師が面談室に入ってきた。一目でただごとではないと分かる表情で医師は言った。大変重大なことになっています。おそらく、まだ剥がれてはいけない胎盤が剥がれはじめています。赤ちゃんは瀕死の状態です。赤ちゃんだけでなくお母さんの命も危なくなります。直ちに帝王切開をします。必要なら輸血もします。いいですね、と。はいどうかよろしくお願いします、と言うか言わない内に医師は飛び出して行き大声で指示を出している。入れ替わりに看護師が入ってきて、手術と輸血の同意書にサインをするように言われる。印鑑は後でいいですから、名前だけ書いておいてください。慌てた様子でそう述べる看護師に私は聞いた。親戚に電話しておいた方がいいような状況なんでしょうか。そうですね万一のことがありますから、そう言い残すと看護師も飛び出して行った。

妻はついに息を吹き返すことはなかった。胎盤早期剥離に引き続いてDICという血が止まらない状態に陥ってしまったためだった。あまりにもあっけない死という現実を実感することは到底不可能であった。長男は何とか一命を取り留めたが、ただ生きているだけという状態だった。新生児集中治療室の小さいベッドの上で人工呼吸器を装着された我が子を私はじっと見つめていた。眠っているような我が子。この子にはきっと何も見えず、何も聞こえないのだろう。そう思いながらも不憫で、呼びかけたりしている。何の反応もない。だがほんの一瞬だがその閉じられた瞼の内側で眼球が動いているのが分かるときがある。まるで夢を見ているように。その時だった。私はとても奇妙な感覚に襲われたのだ。まるで深海から魚が浮かび上がってくるような、しだいに輝きを増す朝の陽に闇が溶かされていくような。そして私の意識は私の息子、いや私自身の体の中に、ゆっくりと帰って行った。


私はまだ一度も現実を見たことがない。
 
 



自由詩Copyright たかぼ 2004-04-25 01:13:53
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