私が24の頃だ。
当時の私は実家でぷらぷらしていていたのだが、その年の正月を一ヶ月ほど過ぎたある日、積年の恨みを晴らすべく父をボコボコにして、そのまま居るのが気まずくなり、逃げるように勤めていた工務店での東京出張に参加して、そこでも人間関係が悪くなり、少ない手持ちの金を持ってスポーツ新聞で見つけたタコ部屋に潜り込んだ。そして15万程貯めるとそこを辞め住まいを探したのだが、世間知らずの私は「保証人」問題にどうにもならない思いを抱き、いつのまにか貯めた金も全部なくしてしまった上、働く意欲を無くしてしまい、赤いボストンバッグを抱えてあちこちの公園に寝泊りするようになっていた。
自動販売機のつり銭拾いや道端で落ちている本を拾い集めてなんとか生きていく事だけは出来た。つり銭拾いなど一日2千円程集めた事があって、その日は確か久々にまともなものを食べて銭湯に行った覚えがある。しかしなかなか毎日そういう訳にもいかず、百円に満たない事も数多くあった。そういう日が続いたときはやむを得ずスポーツ新聞のお世話になり、その日のみの片付け仕事などをして、それで何日も持たせた。とにかく何が何でも働くのがいやでいやでしょうがない時期だった。折りしもバブルの真っ只中で、アルバイト雑誌が枕代わりになるくらい分厚かったのがいまでも鮮烈に思い起される。
思えば16の頃から新聞配達をして18の頃上京し、19の終わり頃まであまり休みもなく働いてきたせいなのか、どうにも実家に戻ってからというものまともに勤めた事などなく、またその気もなかった。ちょうど実家で抱えていた母のサラ金からの借金も清算していて、持ち家など手に入れた時期だったせいもあり生活自体は貧乏でしょうがなかった頃と比べると非常に良かったから、ぷらぷらするのには困らなかった。そんな生活を3年ほど続けたのが仇になって社会復帰するのに非常に苦労した。仕事のカンをつかむのにも、頭を使うのにも、やはり働き続けていないとどうにもならないものがあった。ああ、楽をすると頭ってどんどんわるくなるものなんだなあ、としみじみ実感した。そして、精神がどんどん鬱屈していった。私はガキ共にリンチされるのを回避するため寝泊りする公園をその日ごとに変え、今日は小田急線、今日は西武新宿線という風にしていきながら、いつしか死ぬ事を考えてその日その日を生きた。
そんなある日、私はその日寝ていた公園近くの中野の献血センターに行き、検査用の血液を注射器で吸い取られながらこう尋ねた。
「先生、血管に空気を入れて死んだ人たちって戦争中にいましたよね。一体どのくらい入れると死んじゃうもんなんですかねえ」
「そりゃきみぃ、一リットルくらい入れないと死なんよ。人間ってなかなか死なないからねえ」
70才くらいになるだろうその医者は半ば驚いたように私の顔の方を向いて目を見開きながら、そう言った。無理もないだろう。人を助けるために(あるいは赤十字の収益のためでもあるけども)善意の人が訪れる献血センターにまだ20代前半の若い男がそう尋ねるのだから。しかし私はどうしたら苦しくなく自殺できるかをその時は真剣に考えていたから、そんな常識はずれな質問が出来たのだろうし、きっとその時の私の顔つきは尋常ではなかっただろう。私は仕方なくただ工程どおりに献血を終え、飲み物とお菓子をたらふく頂いて、センターを去った。
死にたいという気持ちは日ごとに強くなっていったが、小心者で臆病な私は、図書館で凍死が比較的楽であるという事を物の本で読んでは早く冬にならないかなあと思いつつ、ただあり余る時間をひたすら無駄に食いつぶした。当時はまだ夏前だったのだ。車にぶつかる勇気もなく、クスリで死のうにもクスリを買う金などありもせず、首を吊るなどとんでもないと言う情けない気持ちのまま、ただ流浪そのものの生活をし続けた。
こんなこともあった。
沼袋という中野区にある町に大きい公園があり、そこに丸太で出来た屋根付きの休憩所を見つけた私は、そこをその日のねぐらと決めて身体を横たえた。するとそこに一人のいかつい体格の薄いサングラスをかけDr.クマひげのような髭を蓄えた気の弱そうな男が、私の座っていたベンチの、私と反対側の角に座った。私はイヤな予感がしてはいたが、疲れてたせいもあってそのまま動かなかった。チラ、とその男の方に視線を向けると、私の方を何かにつけ見ていて、もの欲しそうな表情をしていた。そして注意して見ていくうちに、その男はじり、じり、と獲物を狙うかのごとく慎重に私の方へとにじり寄ってきた。こりゃ決まりだな、とある種の恐怖を感じて決意した私は、すぐに起き上がり、休憩所から飛び出してそのまま公園の出口まで一目散に歩いた。髭の男も、私の後を追ってきたのが気配でわかったが、私が無事公園から出ると、男は出口の前でただ呆然と立って、私の姿を名残惜しそうに見ていた。まるで「シェーン、カンバーック」とでも言いたげに見えた。
後で友達になった男に聞いたのだが、その公園はそんな人たちのメッカみたいなものになっていて、いわゆるハッテンバ、という事だった。その趣味のない私にとっては、なんてイヤな公園があるんだろう、世の中本当に油断ならんと、ただ感嘆したものだった。もっとも相手にでもなってやれば何がしかの報酬は貰えたかもしれないが、そんな事をしてまで生きるのなら働いた方がまだマシだ、と思った。だいたいああいうのはケチも多いと、その時聞かされもしたのを思い出す。
そんなこんなで、何ヶ月かが過ぎ、これから夏になって寝やすくなるというのに、私の精神と肉体はある種の限界点に達し、もうそろそろ働かなければとしきりに思うようになった。死ぬ気もきっと、その時幾分薄れたのだろう。
とりあえず手持ちの金でアルバイト雑誌を買い、池袋にある工場の面接場所に行くため電話をかけて池袋まで行ったが、面接を受けるのが何故か急にイヤになり、ああどうしようか、行かなきゃまずいなあ、などと思いながら改装される前の池袋西口公園の、横に丸い鉄のベンチに長い間座っていると、後ろの方から、軽いパンチパーマをあて薄いサングラスをかけて紺の背広を着た男が、
「やあ、きみ」
と私に声をかけ、こう言った。
「自衛隊、入んない?」
そして私は約一ヶ月もの間池袋の地方連絡所でタダ飯を食わせてもらって後、横須賀の武山にある自衛隊の教育隊に行く事になった。とりあえず放浪は終わりを告げる。
注 初出時より一部改稿