「私は何も言いたくない」
ななひと

「私は何も言いたくない」という言葉が孕んでいる事態について考察してみよう。そうすると人は「言いたくなければ言わなければいいだけじゃない」と言われるかもしれない。しかし、事態はそう単純ではない。
例えば、これが、何らかのきっかけで警察に逮捕された人間が言った言葉だとしよう。「お前がやったんだろう」「私は何も言いたくない」というと、それは黙秘権の行使である。言い訳をすればできる。しかし、「私」は「あなた」には「何も言いたくない」のだ。というのは強い拒否であり得る。そして、この言葉を言われると、警察は、「何か知っているのに、言おうとしないでやがる」と邪推する。そして「何か知っているんだろう。言った方が心証は良くなるよ」と容疑者を追求する。実際裁判でも黙秘権を行使すると裁判官の心証は悪くなる。黙っている、ことも一つの言語行為なのである。
「何も言いたくない」と言ってしまうのは、一つの敗北である。本当に言うことが何もなければ、言わなければいいのだ。「何も言いたくない」と言ってしまったが故に、「何も言われなかった何か」がそこで初めて創出されてしまうのである。実際何もなくてもである。
しかし、「何も言いたくない」と言わなければならない時がある。先ほど言及したが、自己が追求されている場合である。その時、ある主張があれば言えばよかろう。いや、主張があるからこそ「何も言いたくない」という言葉が生まれることもあり得る。「何も言いたくない」と表明しなければならないのは、自己が、他者に、「存在」として認められ、何かの「内容」を持つ主体として認められ、なおかつ、それを自分では認めない場合である。しかし、そこで、「何も言いたくない」と言ってしまうと、先述するが、「何も言っていない何か」が、自分ではなく、他人によって、自分の中にあると決めつけられてしまうのである。
極言すれば、「内面」はこのようにして生成する。本来私の中はからっぽである。そういういい方も甘い。私は存在しないのである。しかし、それが一旦引きずり出され、他人に「指をさされる」ことによって「私」は浮上する。「私」の中身は空っぽである。しかし、中身がないことを、言及した/された瞬間、私の中には「何か言われざる何か」が存在させられてしまうのである。
私たちの「内面」は、私たちのものでは全くない。


散文(批評随筆小説等) 「私は何も言いたくない」 Copyright ななひと 2007-03-24 10:06:59
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