「詩人」の「資格」
ななひと

先日あるシンポジウムで、「活字」の場の現代詩のシーンで活躍しておられる瀬尾育生氏と話す機会があった。氏を嫌うインターネット詩人は多い。なぜなら氏は「ネット詩は認めない」と公言しているからだ。しかも氏はネット詩を全く読んでいない。読んでいないにもかかわらず、「ネット詩は詩として認めない」と言う。当然インターネットで詩を書いている人は怒る。
私は瀬尾育生氏を擁護する気も攻撃する気もないが、主にインターネットで詩を発表している方のために、少しく氏の立場を説明する必要を感じる。
何故氏はネット詩を認めないのか。何故読みもしないでネット詩を否定することができるのか。そこには氏なりの論理がある。氏が否定しているのは、ネット上に発表される個々の詩ではなく、「ネットに詩を発表するという行為」なのである。氏の立場からすれば、「現代詩フォーラム」の荒らし問題などは遠い国の小国民の全くどうでもいい話であろう。
氏によれば、詩を発表するということは、その詩を読んでくれる場に参加できる「資格」を手に入れることと同義だそうである。「資格」というのは、良い詩を書く、ということとは違う。何をするにも「資格」がいる。例えば「家長」としての資格。「大学生」という資格。「医師」という資格。。そして「資格」というものを得ることは、難しくなければならない。誰でも「資格」を持ってしまっては「資格」の意味がなくなる。「資格」とは少数の選ばれた人である必要がある。それは何も有名な詩人に認められる、ということでなくてもいい。詩集を出すとする。実際に詩集を出したことがない人はわからないかもしれないが、「詩集」は、小説その他の出版物と違って、どんなに有名人であってもはっきり言って売れない。(売れる人もいるが、1%にも満たないだろう)だから、どんな有名な人でも、「詩集」を出すことは、身銭を切ることと同義である。有名な詩人賞をとれば、出版社が全額負担してくれて詩集が出て、印税生活、と夢見ている人はただの阿呆である。逆に言えば、お金をだせば、誰でも詩集を出すことができる。「自分の詩集を出すにたる「お金」を持っている」ことも、詩人の「資格」の一つなのである。詩雑誌にしても同じである。「活字」の場は狭い。紙面は限られている。その限られた場に参入するためには、選ばれなければならない。選ばれれば、それが雑誌に載る。それが即ち「資格」である。しかしそれが即ち「詩集」を出すほどの強度を持ちうるかと言えば、そうではない。活字詩人になる道は、限りなく遠い。
氏がネット詩を認めない、というのは、こうした意味においてである。「インターネットで詩を発表するという行為」は、世代的にこうした苦労をして「詩人」の「資格」を得た氏にとっては、あまりにも安易で、「楽すぎる」行為に見えるらしい。要するに、パソコンを持っていて、インターネットに接続できる環境を持っていれば、それだけで資格がもらえる。「現代詩フォーラム」その他のサイトに登録すれば、(見かけ上は)みな平等に発表する機会を得られる。そうした「あまりにも低すぎるハードル」は、瀬尾氏は「嫌だ」と思っていると、私(ななひと)は考えた。
今まで瀬尾氏の立場を、瀬尾氏の許可も得ずに説明してきたわけだが、これはあくまで、私(ななひと)がとらえた瀬尾氏の考えだということは、忘れないでいただきたい。実際私は『現代詩手帖』に載ったらしい瀬尾氏のネット詩否定の論文を読んでいない。(「読んでいなくても読んでいる」という話は前にしたのだが)
また、この文章を読むと、私(ななひと)は、瀬尾育生氏と直接話せる「資格」を持っている人間=あっち側の人間、と人は考えるかもしれない。実際私は本名で詩の雑誌にも書くし、インターネットでも書く。両方のアクセス権「資格」を持っているという意味で、「活字」の側の人間ととらえられても仕方がない。インターネットだけで書いている人々は、「活字」へのアクセス権を持たない人がほとんどだ。そういう意味で、私は「資格付き」というレッテルを貼られ得る人間なのである。
こうした二項対立に対して、両方が融和して仲良くすべきだ、という意見がある。活字詩人はインターネットの詩も目配りすべきだし、インターネット詩人も活字の詩を読む必要がある、両方がすり寄って、より高めあうべきだ、とか云々。しかし、実はこうした言質は根本からして間違っている。私の立場を言えば、そういう二項対立を立てることが、二項対立を助長することになる、と思っている。だいたい「ネット詩人」とはなんぞや、「活字詩人」とはなんぞや、と考えたときに、いや、考えることが既にそういう観念を成立させてしまっているのである。現実を考えれば、状況はもっと錯雑としている。いろんな人がいて、様々な場に「アクセス権」を持ちながら、多様な「アクセス権」を持った人が、例えば「現代詩フォーラム」などで接点を持つ、というのが本当ではないだろうか。
そして、「現代詩フォーラム」の中にも「格差」が存在する。それを可視化しているのがポイント制だ。これは、一種の投稿者への欲望喚起装置としても働いている。作品を投稿して、多くのポイントが入る人、入らない人、コンスタントにポイントが入る人、入らない人がいる。また、それ以前に、「現代詩フォーラム」の秩序を乱す者として、場に参入することを許されない者もいよう。そしてそれを見る人は「あ、この人はポイントが多く入る、有名な詩人なんだ」と考える。それが投稿者とすれば「多くのポイントが入る詩を書きたい」という欲望を生み出す。欲望は欲望を生み、ポイントへの過剰な執着が高じてくる。ポイントが入らない人は、「何故私は良い詩を書いているのに、ポイントが入らないんだ!」と思い、ポイントを「稼ぐ」ことに専心するかもしれない。人々は、ポイントが入っている詩人の発言を重視するかもしれない。また、誰がポイントを与えているか、「あ、この詩にあの人がポイントをいれてる」ということが、フォーラムでは一目瞭然だ。すると、ポイントを入れ合う人々=党派のような幻想が生じるかもしれない。
このように言うと、私はポイント制に反対しているととられるかもしれない。別にそういうことはない。ポイントは、「貨幣」と同じである。そしてポイントは「蓄積」される。多くのポイントを持っている人はそれだけ強い「資格」を持つことになる。「ポイントなんて関係ないぜ!」と言う人もいるだろう。しかし、そういう人であっても、「現代詩フォーラム」という場に参入している時点でポイントから逃れることはできないのである。ポイント制が嫌ならさっさと立ち去るのが正解である。
さて、私は何を言おうとしているのか。話が飛躍しているように思われるかもしれないが、インターネット詩においても「資格」は厳然として存在し、それは日々蓄積されている、ということである。「現代詩フォーラム」のポイント制を例にとったが、これは別の場所でも構わない。「評価される」「評価されない」という場がある限り、「資格」の問題が発生する。
要するに、みな「資格」の問題から逃れることはできないのである。
瀬尾氏はそうしたインターネットの内部の「格差」「差異」を全く考えないで、ネット詩を全否定する、という意味で、誤りを犯している。しかし、それに対して、生理的に、あるいは論理的に、反論することは無意味だ。なぜなら私たちはこの場にいる限りみな「同じ穴のムジナ」なのだから。それが嫌ならば、沈黙し、この場から消え去るしかない。そして存在しないものは、存在しない。


散文(批評随筆小説等) 「詩人」の「資格」 Copyright ななひと 2007-03-21 16:11:12
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