森の心象 デッサン
前田ふむふむ
木がいさぎよく裂けてゆく。
節目をまばらに散りばめている、
湿り気を帯びた裂け目たち――みずの匂いを吐いて。
晴れわたる空に茶色をばら撒いて、
森は、仄かな冷気をひろげる、静寂の眩暈に佇む。
森番の合図の声が、
うすい陽光のなかから、立ち上がる。
乾いた声は、木霊して、
わずかに残るみどりの葉紋に透過する。
わたしは、新しい斧を振り上げて、
父母の年輪のなかに、鋭い刃を沈める。
ひらかれた木の裂け目が、
みずみずしいいのちの曲線を描いて、
夢のような長い時が鮮やかにもえだす。
腕に積もる心地よい疲労で、
爽やかな汗が、ひたいに溢れ、
あつい滴りが右眼を蔽い、
わたしは、正確な季節の均衡を失う。
軟らかく、萌えはじめる春の夜明けのなかで。
・・・・・・
春が息吹を吐き出す、
眩い清流で充たされた春の右眼のなかを、
クラクションを猛々しく鳴らす、
ヘッドライトの閃光が、刺すように通り抜けた、
右眼は流れを失い、世界の半分を白い暗闇のなかに隠す、
崩れるように船は砕けて、かたちを持たない破片が、
わたしの右眼を蔽ってゆく。
母に手を引かれて、坂をくだり、
泣きながら辿った塩からい夏が、
右眼のなかに浮ぶ。
父が愛した、一輪のりんどうのような船を、
悪戯っぽい豪雨が、壊してしまった朝が微かにめざめる、
わたしは、血だらけの船を置き去りにして。
うな垂れる父が、
誰もいない凪いだ海の防波堤に蹲った、
あの時から。
次々と海鳥が、潮騒の立ち上がる床を蹴り、
高い空をめざす。
高さのない夏が、底辺から溶けだす、
零れるみずだけは、きよらかに季節を舐めている。
少ないのだろうか。
流れる血が足りないから、
わたしは、父の風景を、
いつまでも、この右眼に抱えているのだろうか。
痛々しい水平線を、
右眼のなかにひろげれば、
行き場のない瓦礫が、涙のなかに見える。
わたしは、右眼のなかから零れた巻貝を拾い、
耳に当てて、
尚、忘れているなつかしい夏の声を聴く。
激しくゆれる線を湛えて、
潜在する空の心電図の波形のなかを、
父の失意を奏でる夏の汗が、
繰り返し、木霊していった。
そのうしろから、
母が幼い妹を背負って、泣いているわたしを窘めながら、
昇りつづける坂が、緩やかに延びはじめて、
父が辿れなかった、ひろがる静寂をゆく。
極寒に赤々と燃えていた、寂れたストーブのむこうへ。
・・・・・・・
森番の作業停止の大きな声が、静寂を裂いて、
水脈を削る音が、いっせいに途切れる。
わたしは、汗をしわだらけの手拭いで拭き、
森の涼しい息に、眠るように、ひたる。
羽根を強く打ち鳴らしながら、
鳥の声が、みずの流れの傍らに降下して、
おもむろに、降り出した夕暮れを、饒舌に編み上げている、
わたしの視線は、忘れていた森を飲み込んで、
いま、淡い春が、右眼になかにある。
原色の夏を、真綿のように包んで。