蛙声
ブライアン
東京に上京してから、全く耳にする機会がなかった蛙の声を、出張に行った帰りに聞いた。それは、東北だったか、広島だったか。どちらだったかは覚えていない。
その時、急に鳴きはじめたわけでもない蛙の声が、唐突に耳の中で騒ぎ出した。その声は宙を震え、天へと向けられていた。大地から、水中から向けられたそれらの声は、天に届くことなく、空中分解する。
蛙の体から放たれた声は、重力を持たないがため、分裂を免れないのだ。
蛙の声と言うと、いつも闇を連想する。夕闇、深淵の闇。闇が世界を覆い始めると、蛙の声は大きく響きだした。幼いころの記憶。蛙の声は闇と親和性が高かったように思える。
静かな闇の中で響く蛙の声。特に感受性が強いものでなくとも、その声に魅せられるものは多いのではないだろうか。蛙たちの声は無数であったが、大きなひとつの塊に溶け合い、闇に吸い込まれていく。その様は、天に拒まれていると言うよりも、融解しているように感じられることもあった。
しかし、天に届かぬ蛙の声は、大地の重力から抜け出そうともがく、「個」としての悲痛な叫びのようでもある。求めど、求めど、得ることのできない天への願い。
闇が世界を包めば、ゆっくりと闇が、蛙の声を融解し始める。
山形の実家に帰る機会があった。その日はとても晴れていた。夏に帰省するなど、とても久しいことであった。電車から見る緑に萌える田の景色。その時、それらの景色と、眼球とが拒否反応を示していることに気が付いた。電車の中、帰る場所を失ったようであった。途方にくれた。さて、ここからどこへ行けばよいのだろう、と。
盆地の夕暮れは早い。午後5時の斜陽を感じる。光はうっすらと弱められていく。その光度に反応すべく眼球は、多くの情報を求めようとするが追いつかない。すると、視界以外の感覚がそれを補うように世界を感受し始めた。
その時、帰省した。久しく使われていなかった諸感覚が一斉に開花した。するとどうだろう。拒否反応を示した緑の田は、あっけなく向かいいれた。蛙の声が騒々しく聞こえてくる。拒まれていたものが融解し、地元の中に融解したのだ。
大学時代に中原中也の「蛙声」を研究したことがあった。研究と言うにはあまりに忍びないものなのだが、それでも当時は何度も何度も読み返し、「蛙声」に含まれた意味を必死に解読しようと試みていた。
今思えば、「詩」に意味をつけるなど大それたことが、大学生にできるわけもなく、詩の持つ美しさをそのまま説明できるわけもなかった。だが、天性として与えられた「詩」の感覚を持てないものの宿命とは、可能な限り美しさを崩すことなく、意味として、語ることなのではないだろうか。と、偉そうなことも考えてみたりする。
そもそも美しさの理由などは存在せず、それを言語表現で表すことに限界があるのではないかと思ったりもする。それは「詩」を説明する行為としての話なのだが。それらの行為が、宙で分裂する「蛙声」のようである。求めても、美しさの意味に手が届かない。
分裂する蛙の声。蛙の声とは蛙そのものだったのではないか、と考えるようになったのは、最近のことだ。「詩」という言語表現を行う中で中也が「声」に注視したのは、別段不思議なことではない。むしろ不気味なほど自然な考えだ。
蛙声は蛙であった。
宙で分裂したのは蛙であった。
闇に融合したのは蛙であった。
「声」だけを頼りに考えると、蛙は宙で分解せざるを得ない。求めても、求めても届かぬ願い。天に拒否され続ける蛙の声は、悲痛の叫びである他の理由をもたない。それらの悲しみが、湿った日本の大地なのだ。水という生命体の根源と、大地という動物の根源。そこへ縛り付けられた蛙。それ以上求めてはいけないと、天は蛙の願いを聞き入れない。拒否するのだ。だが、蛙は諦めない。この身の訴えを天に求める。
「ここには蛙がいるのだ」と。天はそれらの自己主張に耳を傾けることすらない。その前にたちはだかる忠実な部下、宙が蛙の騒々しい声を切り裂き、分裂させてしまうのだ。
声は、分裂を余儀なくされるだけなのであろうか。
身から剥ぎだされ、宙でその身を分解させる。
声は図表化されなければいけなかったのだろうか。求める声として意味を持たねばいけなかったのだろうか。
いや、少なくとも声は、感覚の一表現に過ぎない。メッセージの一種。蛙の声は蛙のメッセージであり、蛙から剥ぎ取る必要はない。蛙声と蛙は同じである。蛙声と蛙は分裂することなどない。
大地の触感を音にすると、リズムとなったという。大地の触感を視覚化すると、肌理となったという。感受したものをひとつの感覚に集中させることができれば、より具体的なメッセージが生まれる。それが意味だ。
あらゆる方向に広がる諸感覚を、完全な形で感受できるほど人は大きくない。ひとつに絞り、意味化することで人は感受することを覚えた。
声は蛙である。宙に分裂をしたのではなく、融合したのだ。闇に、光を失い形を失い、意味をなくした世界で、蛙は声を放ち、天と融合する。
蛙とは、蛙の声であり、泳ぐ蛙であり、跳ねる蛙である。例え、蛙がどんな形容であっても、闇においてそれらは一切の意味を持たない。闇は世界を包括する。
闇に鳴く蛙は天との融合を達成する。つまり、蛙の声は大地であり、水中であり、闇であり、天でさえあるのだ。それはもはや一つの感覚では感受しきれぬほどのメッセージであり、中也はそれを聞き、人へと思いを馳せたに違いない。
蛙の声を分裂させたのは、人の思考によるものであった。中也は声を大地に走らせ、水面を切り裂き、天へと還した。詩が諸感覚さえも感受できるように。
なんということだろう。意味を求めすぎた若き大学生は、あらゆる諸感覚を無視して、目に見えるように図表化することに躍起になっていた。結果、蛙と蛙の声を愚かにも分裂させた。悲しみの声と、尤もらしい意味をつけて。
蛙=蛙声であることを拒否し、蛙>蛙声と。
紀元前から人は神に憧れを抱き、都市建設を始めたという。人は天に融合することを拒み、天の代替として地上に君臨しようとした。
突き刺す風を防いだり、すべてを解体する闇を人工の光で切り裂いたりし、人は都市を築いた。高いビル。空飛ぶ乗り物。高速移動。
人は大地の束縛から逃げ、むしろ支配しようとした。天と同等に。いやさらに上にと。それらを実行するために、人は諸感覚を切り捨てた。目で見えるものだけを信じた。目で見えるものだけを「在る」ものとした。感受しきれぬ膨大なメッセージを切り捨てることで、効率的に神、すなわち天になろうとしたのだ。人は長い時間をかけて、諸感覚に訴えるメッセージを細工し続けた。
時として、自己主張の強い中也だったと聞く。人の欲求は常に「神」へと思いを抱く。しかし、そうではなく、「融合」という行為を望んだのだ。その両義的なか感情の狭間で中也は、大地、天と融合することをひたすら望んだ。自らの欲望に逆らい、平和である選択肢を。
それは悲痛ではない。何にもまして強い決意なのだ。