十年間
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 その頃、私は建築請負の会社の現場代理人として働いていた。
 朝の六時半に目覚まし時計を合わせ、車で出勤する。途中、牛丼屋チェーンで納豆の朝食をとり、タバコに火をつける。ヘルメットを被り現場に入ると、職人の出面(人数)を確認し、会社に報告する。工場からの搬入物があるときは、トラックの誘導などもする。
 建築現場の朝は早い。いかつい男たちのラジオ体操が終わると、現場監督がその日の訓示を垂れ、職方たちは各自の持ち場へ散る。私の仕事は工事の進行が工程に沿っていれば何もすることはない。しかし大抵の場合、進行は工程より遅れていた。遅れる理由は様々だが、概ね工場からの製品に不備があることによる。現場監督から遅れを叱責される。職人たちからは、製品の不備をなじられる。
 ところで、私は中途採用でそのゼネコンの下請け会社へ入社した。それまでは旅行代理店で日当を稼ぐ添乗員をしていたのだが、湾岸戦争と不況のあおりを食らい、転職を余儀なくされたのである。三十を過ぎてからの転職であった。だから建築の図面というものが読めない。二次元の図面なら辛うじて読むことが出来たが、三次元が描かれた図面はいくら目を凝らして見ても理解することができななかった。よって、現場では監督の叱責と職人たちからのクレームとの間に挟まれ往生する。品物のどのパーツに不備があるのか私には理解できないのである。ところが不思議なもので、私がいくら往生しても、最終的には進行は工程に追いつき、建築物は無事に竣工するのであった。
 毎日々、そういうことの繰り返しのなかで、私は少しずつ精神を病んでいった。転職することも考えたが、その会社は給料が良かった。
 私は精神科に通いながら、外国車に乗り、週末にはフライフィッシングにでかけ、ボーナスの度に舶来のギターを買い代えた。浪費と抗欝薬を服用することで精神のバランスを保とうとしていたのだろう。しかし、土曜日の夜、釣りからの帰りにシトロエンがレインボーブリッジにさしかかるころになると、ベイエリアの夜景を見下ろしながら、ああ、またあの理不尽な叱責とクレームの一週間が始まる、と暗澹たる思いに囚われるのだった。 結局、数年後に私はその会社を辞めた。シトロエンを売り払い、半年ほど自宅で休養してから、親族の経営する食品会社に世話になることになった。私の仕事は東京の東はずれの駅に隣接するショッピングモールの地下街の惣菜を売る店で、コロッケやメンチカツを揚げることだった。月給は半分以下に減った。当時の私はそのことを不満に思っていた。ろくに働かないパートの主婦や学生アルバイトを怒鳴り散らしながら私は屈託していた。
 ある日、本社から呼び出しを受け、行ってみると、私のパート主婦や学生アルバイトに対する態度が問題になっていて、上司から店を変わるように言われた。その店は自宅から片道二時間以上かかるところにあり、拒んだ場合、辞めてもらうことになる、といわれた。私は躊躇なく退職する方を選んだ。
 蓄えのほとんどない私は家賃の安いアパートに引っ越すことにした。場所は東京の西側で、付近には多摩川が流れていた。その六畳一間のアパートに暮らしながら私は道路工事のガードマンの職を得た。収入は更に減り、生活のレベルは最低限度にまで落ちていった。
 そんなある日、建築会社で同僚だった男から電話がかかってきた。父親が死んで葬儀をするのだが、受付を頼まれてくれないか、と彼は言うのだった。断る理由もなかった。私は指定された日時に礼服を着て葬儀会場にでかけた。受付とかかれた張り紙がされた机に座っていると、かつての建築会社の社長が現れた。
 久しぶりの対面であった。通夜の席で私は社長に近況を報告した。すると、社長は
「もう一度おれのところへ戻ってこい」
 というのだった。私が
「現場代理人はもうできません」
 というと、配属は総務部だという。給料は現場代理人当時の半分だったが、ガードマンの二倍以上だった。私は二つ返事で社長の提案に乗った。
 安定した生活が始まったかのように思えた。しかし、そうはならなかった。
 会社には社歴の長い女子社員がいて、彼女が総務全般を取り仕切っていた。社長は彼女を嫌っていて、なんとか辞めさせたいのだった。彼女の後釜に私を添えることを考えていたのだ。社長はことあるごとに
「為子の仕事をおまえが奪え。そうすれば給料も元通りにしてやる」
 と言うのだった。私もその気になった。以来為子との心理戦が始まった。しかし私は劣勢のことが多かった。
 そんなある晩、行き着けのバーから出た私は、小田急の終電で帰宅しようとしていた。乗車ホームに並んだ私は私と似た風体のサラリーマンとつまらぬことから諍いを起こした。その男の胸倉を掴み、思いっきり持ち上げると、背中がピシリと鳴った。駅員が駆けつけてきてその場はそれで収まったが、翌朝、私はベッドから起き上がれなくなった。なんとか電話のあるところまで這って行き、救急車を呼んだ。救急車はサイレンを鳴らしながら私を最寄の大学病院へ運んだ。医師から
「背骨が折れてます。第七胸椎圧迫骨折です」
 と診断され、私はそのまま入院することになった。背中の痛みは尋常ではなかったが、これであの神経が磨り減る心理戦から逃れられると思うと、ほっとするところもあった。
 ギプスで患部を固定すると、痛みは和らいだ。病院で、私は文字通り「骨休み」していた。会社の者や親戚たちが見舞いに来る。時折インターネットのオフ会で知り合った者たちも私の病室を訪れた。インターネットの巨大掲示板である2ちゃんねるの創作文芸板に集う仲間たちである。私は本を読む習慣はあったが、自分で書こうとしたことはこれまでの人生ではなかった。しかし、彼等に触発されて、自分でも投稿サイトに創作文を投稿するようになり、それを高く評価してくれる者も現れるようになった。
 怪我は思いのほか重く、私は数ヶ月を病院のベッドで過ごした。骨折が癒えてからも原因不明の高熱が続き、整形外科病棟から内科病棟へ移された。そのころ、勤務先の同じセクションで働く人間が病室を訪れ、私に言った。
「このまま長引きそうなら、一度退職して、健康を取り戻してから再雇用するが、どうか」
 欝が悪化していたこともあり、私はそれをリストラと受け取り、その場で退職を願い出た。私の願いはあっさり了承された。長く休んでみると、あの為子との心理戦が続く会社にはもう戻れないという気持ちが強かった。
 結局私は原因不明の微熱を抱えたまま退院した。欝もますます悪化し、私はもぬけの殻のような状態に陥ってしまった。二週間に一度、精神科外来に通う以外は、アパートの部屋に篭り、2ちゃんねるに耽っていた。生活費は健康保険の傷病手当と失業保険でまかなったが、支給期間が過ぎてみると、浪費癖のせいか、蓄えも早々に底を突き、行く先の生活をどうするべきか医師に相談すると、生活保護制度を利用することを勧められた。市役所福祉課に行き、その旨を伝えると、職員から手持ちの残金が五万円を切ったらもう一度来るように言われ、その間に揃えるべき書類の説明を受けた。書類は簡単に揃い、手続きはあっさり済んだ。こうして私は安定したサラリーマンから生活保護受給者に成り下がったのである。しかし私はもとの生活に戻りたいとは思わなかった。古株女子社員との既得権争いは欝を悪化させるだけであった。それに、私には「創作」という新しい道が開きかけていた。創作を通じて知り合った仲間たちと数ヶ月に一度ささやかな飲み会を開く。それは私のささくれだった心を慰めた。しかし、それもつかの間の歓びで、飲み会が終わってしまうと、抗欝薬と眠剤の手放せぬ鬱病患者に戻ってしまうのだった。
 私の欝は緩慢で頑固だった。積極的に死を願うことはなかったが、例えば遠い親戚がぽっくり病で急死したことなどを聞くと、芯から羨ましいと思うのだった。
 そんな中、私は緩やかなペースながら創作を続けた。一作書き上げるごとに、いままでに経験したことのない充足感に満ち足りるのだった。
 
 緩慢な欝が続いていた。生活保護費の約十三万円。これはなかなか微妙な額で、文字通り最低限の生活は保障される。そうして私はそれに慣れてしまっていた。十三万円のなかから約五万円の家賃を払い、食費は一日千円と決めてしまえば、光熱費や電話代、インターネットのプロバイダーに払う金額もなんとかなった。働く気はまるで起こらず、このまま永遠にこの状態が続くのか。それではいくらなんでも世間が赦すまい。そうは思っていても、ダレきった私は仕事を探そうとはしなかった。
 安酒を飲みながら2チャンネルに書き込みする日々が続いた。医師からは酒は禁じられていたが、私はそれを無視して飲み続けた。昼夜逆転の生活のなかで、深夜に酒に酔い、書き込みをすることだけがが私の生きがいだった。そんな中、掲示板の仲間のひとりが大手出版社の主宰する文学賞を受けることが起きた。その事件は私を興奮させた。自分たちの遊び場から羽を生やして飛んでいった彼。受賞作の載った文芸誌を買って、ページを開いたときの興奮を、私はいまだに忘れることができない。読んでみると、それは彼が私たちの遊び場にしていた投稿サイトに発表したものとは趣きが違っていた。懐が深く、引き出しの多い彼。私は自分の実力と彼のそれとを比べ絶望した。私といえば、公募の規定枚数に達することさえ出来ずにいたのである。しかし、そんな私の焦りも次第に日々の荒んだ生活のなかに溶け込んでしまっていた。
 そして私はいつしか「死」について思いを馳せるようになっていった。このままこの状態が続くわけがない。いつかは生活保護も打ち切られ、私は本位ではない仕事に就く。四十台の私に良い仕事先が見つかるとは思えない。この状態は会社を辞めた時点である程度予測はついていた。私は「創作」をメインに添えた生活をするつもりでいたのである。それは必ずしも商業的な成功を意味するものではなかった。私の作風は商業的ではなかったし、第一量産がきかなかった。例えば生きるのに最低限の収入を得る仕事に就き、創作を続け、インターネットの投稿サイトに発表する。そういうささやかな生活を夢見ていたのだが、実際の私は生活保護費を貰い続け、安酒に酔い、創作には身が入らない。であるならば生きている価値などなく、早々に華々しく死んでしまおう。鬱病患者の考えそうなことだが、私は死よりも死に至るまでの過程が恐ろしく、行動にでられずにいるのだった。
 そんな生活が数年続いた。最もひどい頃は、半年ほど風呂に入らず、歯も磨かなかった。伸び放題の不精髭を生やし、手足には垢の膜がはり、身体からすえたような匂いを放っていた。医師はそんな私に入院を勧めた。私は医師の勧めに従い、精神病院に入院することになった。
 約三ヶ月の入院生活は快適だった。毎日清潔な風呂に入り、朝六時起床、夜九時に消灯。そういう生活は私をリフレッシュさせた。
 退院した私は徐々に酒を飲まなくなっていった。酒を止め、昼夜逆転の生活を改め、近所の生活支援NPOに通うようになったのである。この心境の変化は、自分でも理由が判らず、心の奥底でサーモスタッドが作動したとしか言いようがない。相変わらず抗欝薬と眠剤は手放せないが、朝は七時には起き、夜は日付が変わる頃に布団に入る。そういう規則正しい生活をしてみると、時間というものが余ってしかたがない。パソコンのオンラインゲームにも厭きると、私はもう一度仕事をしようと考えるようになっていった。ささやかに仕事をして創作する。大幅に遅れたが、当初の目標だったことを実践するつもりになっていった。
 いまの私はハローワークに通っている。週に一度、障害者窓口に求人票を求めに行く。しかし、高卒扱い、四十代後半、特殊技能なし、の私を面接してくれる企業は少なく、数週間通って一件出るか出ないかである。先日受けた面接は電鉄系のクレジットカードの会社であった。週に三十時間のアルバイト仕事だが、私は毎日、朝に夕に郵便受けを見にゆくのだった。数日後、馬鹿丁寧な言葉で落選を知らせる通知が届いた。あるいは近所のコンビニの求人募集の張り紙を見て、店長に面接してもらいに行く。五年も社会生活から離れていたのだから、最初は週に三日、一日五時間程度の仕事から始めて、徐々に慣らしてゆき、社会復帰への自信がついたらフルタイムの仕事を探そうとの魂胆である。しかし私はそのコンビニからも採用されなかった。 
 一方で、色々と動いてみてつくづく判ったことがある。それは私の「欝」は治らぬということ。私には根本的に生きる気力が足りない。あの図面も理不尽な叱責やクレーム、為子との心理戦も、潜在的に在った欝を目覚めさせるきっかけにすぎず、遺伝子に刻まれた生まれついての欝体質であるということ。ハローワークの窓口で、あるいは面接会場で、私はどこか上の空で早くそこから立ち去ることばかり考えている。そうして積極的な死をも選べない以上は、この例えるのが困難な虚無感を抱えながら、以降の長い人生をやりすごさなければならぬのであろう。

 さて、ここまで駆け足で語ってきたが、これが私の現状まで、十年間を遡った足跡である。私はここまで読んでくれた諸君へ問いたい。
 私はどうするべきか。
 問いかけたところで筆を置くことにする。


散文(批評随筆小説等) 十年間 Copyright MOJO 2007-03-15 15:27:58
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