静心なく
蒸発王
久方の (日の光がのどかな春の日だ)
光のどけき春の日に (それなのにどうして桜は忙しく散っていくのだろう)
静心なく (もっと美しい桜の花が見たいのに)
花の散るらむ 紀友則 (巻二・春下・八四)
『静心なく』
母校の校長は
大の桜好きで
初めて校長になった50年前から
ひたすら
校内に桜を植え続けていた
染井吉野
八重桜
しだれ桜
山桜
寒桜
彼岸桜
高嶺桜
幾種もの桜を
正門に裏門に
校庭わきに中庭に
時には並木を作るように
ひたすらに
植え続けた
先生は古今和歌集にある
紀友則の歌が大好きで
毎年新入生が
入学してくるたびに
最初のスピーチで其のことを語っていた
わが校の校章は桜の御紋ということもあり
桜とは深い縁があります
そこかしこに桜が植えてありますが
全部で7種の桜があって
三月の半ばから
五月の最初まで
少しでも長く花が見れるようにしてあります
散り急ぐのは
花も人も名残りなものです
丁寧に人生を歩んで下さい
そう語った校長は
去年の冬から体調を崩して
入院を繰り返していた
病室は
桜の見える窓際が良いと言ってきかず
個室だってとれる身分なのに
6人部屋の
桜の見える窓際が定位置になった
校長の名前を聞くと
入学した時の
あのけぶるような
薄紅色の嵐を思い出す
染井吉野が満開で
春は大きな竜巻になって私を迎えた
渦巻く花弁の中
未だひっそりと
蕾をふくらませる八重桜の並木が
どこまでも
どこまでも
続くような気になった
春がきて
学校の桜は
一斉に満開になった
染井吉野も
八重桜も
しだれ桜も
山桜も
寒桜も
彼岸桜も
高嶺桜も
七つのすべての桜が
申し合わせたように
一斉に咲いた
桜の花粉症になりそうなほど
空気の色は薄紅一色に染まり
こんなに騒がしい春は初めてのことだ
と
学校は呆然とそのさまに見とれた
校長が永眠されたのは
そんな開花の次の朝だった
眼前に広がる
渦高い春
其の開花が
別れの挨拶だと気づいた
瞬間
鋭い春疾風にあおられて
紅色の花びらが舞いあがった
天にも届きそうなほど
七つの桜の花弁は
上空へと手をいっぱいに伸ばしていた
久方の
光のどけき春の日に
静心なく
花の散るらむ
『静心なく』