主役について
蒸発王

『最後くらい主役をやったら?』

と母に言われてしまった



芝居をしている
キャリアとしては未だ全然浅いくせに2度目の演出・兼・役者の道を進もうとしている
うちの劇団としては初めてなんだってさ
2回も連続して演出と役者を兼任しちゃう人って。(遠い目)


そう主役

母はまぁそういうわけなんだけども

芝居を始めて私は『主役』っていうのがあんまり好きじゃなくなった。

初めて舞台に立った時というのは、どうしても『台詞の数=役の大きさ』という観念があった。いや別にそれが100%間違えっていうわけじゃない。台詞が多いということは、それだけお客さんに『簡単な方法で』アピールする機会だ多いってことだから。お客さんの印象に残りやすいのは、まぁあたりまえ。でもなぁ、台詞っていうのはお客に自分をアピールするための『最も簡単な方法』ってだけで、アピールの手段としてはそれだけじゃないのよな。
最近、稽古つけている役者に多いのが集中力の無さ。
舞台に立っている時にね、素に戻ってしまう。
台詞が終わると、自分の役目終了ーみたいにね、まだ舞台上にいるのに本物の自分に戻ってしまうのね。そんで次ぎの自分の台詞まで『待っている』の。もったいないなぁって思う。せっかくまだ舞台上にいるのに、その世界の空気を役を生きているのに、お客さんに自分の生き様をみせつけるチャンスだっていうのに、全部無駄なんだよね。
台詞を言っていないと、目立てないわけじゃないのに。
例えば顔芸とかの表情とか、客にかけるとか、色々あるのにね。
台詞がある、だから目立てる、目だって良い、っていうのは完全に間違えだし、舞台の前に出て行けばお客さんの心つかめるっていうのも間違え。

本当の『自分』でいるときよりも、生き生きとその役の『人生』を舞台上で生きられる役者。
これがお客さんの心つかむ役者だと思う。
それができていれば、どんな役でも印象的になってくる。

さらに、人にはそれぞれ、生きやすい『役』というものは存在する。『主役』という洋服を着て似合う人と似合わない人。楽しめる人と楽しめない人。生きられる人と死んでしまう人。似合わない人のほうが、主役という洋服が似合う人よりも圧倒的に多い。そこに上手い下手は関係無い。純粋に『似合わない』だけ。ほら、ブスでも雑誌にのっている服とがが身体の構造上に合う人っているじゃないか。あれと一緒。
せっかく技術的に上手い役者さんでも、似合わない洋服(役)を着せられてしまうと魅力が半減してしまうし、舞台そのものもぶっ壊れる。

そして、私にとっての『主役』というのは、死んでしまう『役』だということが分かった。

まぁ回りから、どんな役でもできるマルチ役者と言われてはいますし、今までやった役も同じようなキャラクターがほとんどいない私ですが、(でもね、マルチだと自分の好きな役につける確立って低いんだ・・・どんな役でもそれなりに演じこなすから、皆があんまりやりたくないような地味に難しい役に置かれるんだよ。なんでもソツ無くってことは、絶対にNO,1にはなれないってことさ(涙)
それでも『主役』についた事はない。
私に似合うのは脇役のトップみたいなクセがあって、いつも他の役者を食っちゃうけども、いつも主役に食われる役、つまりふわふわのスカート。かっこいいなぁ、と思いながらも足の短い私には着れないストレッチ・ジーンズのような存在、それが『主役』。
要はさ、伝えたいわけですよ。自分の魅力という奴を。『役』っていうのはその手段にすぎないわけなのよな。そんな『手段』にこだわって自分が出せなくなるなんてなんて、本末転倒もいいところ。舞台に立つ意味がないじゃなーい。


とまぁそんなこと思うのでございますよ
役に大きいも小さいも無い、いかにキャラクターの人生を生きられるかだ、と
そんなことを後輩に怒鳴り散らすわけですよ

ええ


だからね、オカン、最後だからこそ、私は脇役になりたいんだよ。
自分が一番輝ける、そんな素敵な脇役にね。







散文(批評随筆小説等) 主役について Copyright 蒸発王 2007-03-07 00:04:49
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