愛しい気持ちだけで食いつないでいきたいぜ ってな雑感
リヅ

ブルータスよ、お前もか
そう言えたら楽なのに

今はもう連絡の取れない尊敬している友人が昔日記でこんなことを書いていた。
もう何年も前になる。何故か未だに覚えているこのフレーズ。
凄くかっこいい詩を書く、かっこいい人だった。



傷ついたって言葉が人を傷つけることがあることを私は知ってる。
だから私は人前では泣かないように心がけている。そういう優しさがあると思っている。
昔、女友達と喧嘩した時、彼女は泣きながら「あなたは自分が一番可哀想だと思っているのよ」と叫んだ。
そうかもしれない、わからない、でもそんなつもりはなかった、
それにどちらの方が自分のことを可哀想だと思っているかなんて量りで量って比べられることじゃない。
ただ、それを言っても伝わらないだろう、言えない、自分が一番可哀想だと思っているなんて言われてしまったら。
彼女が立ち去ってから一人で泣いた。
しばらくして、彼女は戻ってきて「ごめん」と謝った。
そういう優しさもあると思う。

弱者に優しい社会になったもんだ。
それでも本当に人に優しい社会からはどんどん離れていってる気がする。
教師達は当時何もかもに対して無気力だった私に、「努力が足りない」「やる気がみられない」など散々言ったが、
精神科に通い始めたと告白したら手の平返したように同情してくれた。
べつに行く前と行った後と私の中で何が変わったわけでもないというのに。
結局、教師達の言葉は的を射てるもので、正しかったかもしれないけど、私のためになる言葉は何もなかった。
なんも届かなかったし、変えなかった。それは正しさと言えるんだろうか。

会う度に頑張れって言ってくる、とある教師(Hとでもしとくか)が嫌いだと言う自律神経失調症で入院した過去のある友人がいる。
私は第三者だからHは応援してるって伝えたいだけで彼女を頑張らせたいわけではないんだろうなぁと冷静に思ったりする。
言葉を選ばないHもどうかと思うけど、彼女もHの表面的な言葉じゃなくて、
その向こうの、言葉の原動力、気持ちを汲み取ってあげればいいのに、なんて。
でも余裕を持てない時が誰にだってあるのはよく知ってる。
とりあえず、気持ちのすれ違いを恐れてしまう私は彼女に対して「応援してる」と言うことにしている。
まぁ人前では常にゲラゲラ笑っているハイテンション女なので中々機会はないのだが。

弱者に優しい社会になったもんだ、なんて批判したりしたけど、
弱者に優しい自分だった時代も過去にあったりする。手首切ってみちゃったりなんかして。アホか。
でもつらかった。怖かった。毎日が痛かった。形にしないと、その痛みが証明されない気がしていた。
痛みなんて、自分の中で堪えて殺して、そのまま忘れてしまえば良かったのにね。
そんな過去があるから、鬱病だから、リストカッターだから、傷つきやすいってそういう言葉には敏感になってしまう。
鬱病の人も傷つくけど、鬱病じゃない人だって傷つくぞ。当たり前だけど。
そして鬱病の人と、そうでない人の傷の深さは比べられないぞ。なぜなら他者だから。
さっきも似たようなこと書いたけど、人の気持ちや、傷や、目で見えない心は量りで量って比べたりなんかできない。
リストカッターだってそうだ。
手首切ったら、手首切らない人よりも傷ついたって、それはきっと、違う。
切るのを堪えるつらさだってある。
切りたいと思わない人だって、だからといって、死ぬほどつらい経験をしたことがないわけじゃない。
気持ちを、傷を、心を、量ろうとするのはもうやめにしようよ。
そのまま受け止めたいんだよ。

初めはただ、自分を全て吐き出して曝け出して楽になりたかったから詩を書いた。
仲間と酒飲んでゲラゲラ笑うことを、一人で紅茶飲みながらタバコ吸う時間を、
生きていることの感動を知って、ストリップショーのかっこ悪さを自覚して、あんま詩が書けなくなった今、
愛しい気持ちを言葉で的確に表現する力だとか、
美しい世界を言葉でもって上手に切り取る力だとかが欲しくてまだ詩に関わっている。
詩にはそういう力があると思う。
どうすれば伝わるかなぁなんてそればっかり考えている。
みんなは何を詩に、この場所に求めてるんだろうなぁ。



怒りこそが明日への活力だ。
そう笑って言えたらいいのに。
そんな怒りしかいらんのに。
なんだか寂しい。


散文(批評随筆小説等) 愛しい気持ちだけで食いつないでいきたいぜ ってな雑感 Copyright リヅ 2007-03-06 22:49:34
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