俳句の非ジョーシキ具体例5
佐々宝砂

赤く青く黄いろく黒く戦死せり  (渡辺白泉)

なんだかだんだん非ジョーシキでなくなってきた「俳句の非ジョーシキ具体例」、今度は時事ネタである。それも茶化すわけにはいかないたぐいの時事ネタである。どうやって非ジョーシキに結びつけるつもりなんだよう、私。

白泉の戦争句には「戦争が廊下の奥に立つてゐた」というのがあって、冒頭にあげた「赤く青く」より有名かもしれない。反戦的な文章の中に引用されることも多い句だ。廊下の奥に「戦争」を立たせてしまう感性が非ジョーシキだとは思わない。廊下の奥には確かに「戦争」が立っていたのだと思う、そして私にもそうした意味での「戦争」を実感する感性は宿っていると思う。思いたい。日々のニュースのなかに、新聞のなかに、そしてもしかしたらあなたがいるその部屋の隅に、ひっそりと不気味に、戦争は立っている。今も、だ。今もきっと、立っている。「戦争が廊下の奥に立つてゐた」という句、私にはとても恐ろしい。恐ろしいが、この句を恐ろしいと感じる感性を失いたくないと願う。

「戦争が」とは違う意味で、冒頭の句も恐ろしい。現実の戦争を知らない、実際に死体を見た経験すら数回しかない、私はそんな人間だ。冒頭の句の「赤く青く黄いろく黒く」という単純きわまりない色彩表現の積み重ねは、そんな私にすら、「戦死」というものの恐ろしさを想像させ、戦慄させる。普通、色の表現をいくら重ねたって、こんなふうに人を戦慄させることはできない。「青い空」だろうが「蒼い空」だろうが面白くない。「赤くて青くて黒い空」でもつまらん。つまらんことこのうえない。そこに「白い雲」があってもつまらんことはかわらん。だが、そうした単純な色彩表現の積み重ねが「戦死」と結びつくとき……

私は言葉に詰まってしまいそうになる。赤い。言うまでもなく血液だ。あるいは炎であるかもしれない。青い。おそらく打撲傷の青ずみだ。戦地で病んだため顔色が悪くなっているのかもしれない。黄色い。傷や火傷が膿んできて、もしかして蛆がわいている。そして黒い。もう想像するのがいやだ。私はいやだ。戦死は赤くて青くて黄いろくて黒い、ああそんな単純な表現だけで、私にはたくさんだ。もうたくさんだ。でも私は、きっと目を逸らしてはいけないのだ。この俳句の単純な表現のなかに数えられない死がある。ひとつの死ではない。たくさんの、ひとつひとつ意味がある、数えることのできない死だ。私はその死のひとつひとつを直視しなくてはならない。正しい情報を得ることができないならば、せめて自分の想像を直視する、赤くて青くて黄色くて黒い戦死を。そして戦慄する。何度も何度も。

あなたが白泉の戦争の句に戦慄しないのだとしたら、あなたが、非常識なのだ。

そして「戦争」こそは非常識の極みだ。人を殺し、物を壊す。個人ではとてもできない、恐ろしい権力が存在してこその数多くの死と破壊。そんなのごめんだ、と私は思う、私はある意味とても常識的な人間だ。私は死にたくない。人が死ぬのも見たくない。ものが壊れたらもったいないと思う。どうしてわざわざ戦争なんてことをするのか私には理解できない。ブッシュの演説も小泉首相の意見も私には理解できない。私はもっと楽しく遊んでいたい。その方がいいじゃないか。私はホラー映画の青っぽいちゃちな血液を見ながら非ジョーシキに笑っていたい、国民が一丸となり愛国心に燃えて戦いに挑むときも、私はくだらない非ジョーシキなバカ怪奇俳句を詠んで楽しんでいたい。私はそのような意味で非ジョーシキでありたいのだ。


玉音を理解せしもの前に出よ  (渡辺白泉)


散文(批評随筆小説等) 俳句の非ジョーシキ具体例5 Copyright 佐々宝砂 2004-04-19 04:15:59
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俳句の非ジョーシキ(トンデモ俳句入門)