瑪瑙の牡鹿
蒸発王
私の右目には
鹿の眼球が入っている
『瑪瑙の牡鹿』
父は猟師だった
山里は畑もあるけど
狩猟も盛んで
私の父も
例にもれず鉛玉を放っていた
たーん たーん
たーん たーん
そんな音が
山のほうから木霊すると
決まって
父は大物をしとめて帰ってきた
父は
鹿をよく持ちかえってきた
私が右目を失ったのは
産まれて間も無く
事故でもなければ
病気でもなく
売られたのだ
私の瞳は右だけが
人ならぬ色をしていた
質屋は
まだ日の目を浴びて
三日と経っていない私の瞳の色を見て
すっかり惚れ込んでしまったらしい
赤ん坊の目玉1つで
考えられないほどの金を出してきた
母は難産で私を生み
後の血で生死の境を迷っていた
父もまだ駆け出しの猟師で
季節は冬
獲物も獲れず
父が
ノミで私の目をくり貫いたのだ
美しい
金色に燃える瑪瑙のような
糖蜜色の瞳だったよ
と
後に母が語った
物心がついた時には
もう
私の右目には
鹿の目が納まっていた
其の鹿の首は
右目の抜けた状態で
壁に大きく掛けられている
4本角を持った見事な牡鹿で
角も残った左目も
糖蜜色に艶々と輝き
自分が此れと同じ右目を宿すことは
失った事よりも嬉しく思えた
私は壁にかかった其の鹿が好きで
良く鼻筋を撫でた
私が悲しければ鹿は悲しそうで
私が笑っていれば鹿は嬉しそうだった
奇妙なことと言えば
そう
矢張り物心ついた頃から
私は瑪瑙を舐めさせられていた
父は何処から取ってくるのか
貝殻のような大きさの瑪瑙を
毎日私に渡して
溶かして飲み込むようにと言いつけていた
何故か
私が口に含むと
瑪瑙はドロップのように
甘味を帯びて蕩けた
1度食べ忘れてしまった時
右目が急に見えなくなってしまった
どうやら
右目のために
私は瑪瑙を食べているらしかった
やがて
何年か経って
私は大人になって
絵描きになり
父も母も居なくなって
家は
私と牡鹿だけになった
鉱石屋は善く回ってきたので
瑪瑙は安価で買い求めていたが
在る日
ストックしていた瑪瑙が切れた
困ったとはいえ
明日にでも鉱石屋は来るであろう
右目が見えなくなる程度であったので
ほっておいて仕事を続けた
真夜中
たーん たーん
たーん たーん
耳元で
あの銃声が聞えた気がして
目を覚ました
水のしたたる音も聞える
家の様子を調べると
壁の鹿が
残された左目だけで
泣いていた
気付けば私の右目も
同じように涙を零している
私の右目と鹿の左目が合った
しぼりこむように
目蓋の裏に景色が浮ぶ
細い滝の流れる
薄く暗がった谷だ
色は良く見えないが
白い岩壁に囲まれていて
そこで牡鹿が岩壁を舐めている
甘美な味だ
牡鹿の目は私の無くした糖蜜の瞳にそっくりで
其れに銃を構える男がいた
父だ
父は
おかしくなっていたのだ
私の瞳をくりぬいて
其の瞳の美しさに
すっかりやられてしまっていたのだ
もう一度
あの瞳をくり貫きたい
あの
美しい
瑪瑙の瞳を
たーん たーん
たーん たーん
鹿の瞳はくり貫かれ
その記憶を封じるために
私は瑪瑙を食べていたのか
私は
鹿の左目から流れる涙を拭いて
スケッチブックを開いた
朝になったら山へ行こう
お前の行きたい所へ
そう呼びかけて
私は一晩中先刻見たあの景色を
スケッチブックに描き殴った
夜明けを待って
鹿の頭を抱きかかえると
山に分け入る
薄く地面を包んだ初雪が
あたたかな冬の風に
ゆっくりと
ほどかれ始めた
冬の終わり
群青に薄らぐ夜の中を
緑の恩寵の懐へ
深く深く歩みを進める
山間を縫って
やがて
滝の滴る
谷間に出た
唖然とした
谷間には
白い滝が糸のように細い流水を
何本も張り巡らしていて
包む様に囲んだ岩壁には
矢張り細かい縞模様が
何十本と横切ってあった
白黒だと思った岩壁の色は
翡翠と見紛うばかりの
一面の
紺緑
山の中にあるはずなのに
海を見つめるような
瑪瑙の谷だった
崩れ落ちている
瑪瑙の破片を口に含むと
いつもの甘い味がした
掌に冷たさを感じて見れば
腕の中で牡鹿が泣いていた
抱きしめて
舌で涙をぬぐう
お前の涙も
私の右目の涙も
瑪瑙と同じ
甘美な味だね
ああ
ごめんね
瑪瑙に
帰りたかったんだね
おかえり
『瑪瑙の牡鹿』