春の一歩
草野春心
完璧な春の下を
僕らはゆっくり歩いている
見慣れたはずの駅が今
妙によそよそしく見える
空は青くて風も澄んでいて
光もくっきり射している
でも僕の体の中はぐちゃぐちゃで
たくさんの言葉が混じりあっている
君にはそれが見えるかな?
そう、君もやっぱり綺麗で
僕は今でも君を好きで
君もやっぱり僕を好きで
春が僕らを優しく引き離してゆく
その手のひらはちょっとゴツくて
けれどもちょっぴり温かくて
だからこれはきっと良い事なんだと
繰り返し呟いたのは昨夜も同じ
改札を抜ける一歩
トイレに入ってゆく一歩
ひとつずつ押し花に出来たらなあ
階段を上ってゆく一歩
君が君になるための一歩
「さようなら」の一言よりも
強すぎる君の横顔が哀しいよ
ねえ君は何を考えてるの
どこを見つめているの
言葉にすれば何かが砕けそうで
手を握るのも違う気がして
君が君になるって事は
どうしてこんなに苦しいのだろう
ねえ次の電車を待ちながら僕らは
本当は何を待っているの
君の髪が風にゆれている
何度もくちづけた君の唇が
真一文字にむすばれている
君の目は僕を見ていない
君は他人になりかけている
いつもの音のちょっと後
目当ての電車がやって来て
無数の他人が乗り込む
君がその中の一人になろうとしている
鋭い思いが僕を突き刺す
ドアが閉まる……その前に
君が僕をふりむいて
見たことのない顔で
だけど今までで一番の顔で笑った
ずっと僕はその顔が欲しかった
そしてまもなく電車は行ってしまった
階段を下りてゆく一歩
ふりむかないひたすらの一歩
ひとつずつに思い出が滲んでゆく
改札を出てゆく一歩
僕が僕になるための一歩
無理やり胸に押し込んだその後
やっと僕はぐしゃぐしゃに泣いた