ニカラグア競争男
カンチェルスキス




 
 まるで八百屋から飛び出してきたような見事な赤い帽子をかぶり、
 可能な限りじじいに近いボーダライン
 ぎりぎりのおっさんは黒の長靴を回転させ、
 操るのは、カゴの潰れた自転車。
 そのスピードは、成人男性の歩く平均的なスピードを
 超えることができない。
 ちょっと気を許すとあっけなく抜いてしまうから
 今日のおれはチョロQの原理で歩かなかった、つまり、
 10円玉を脇の下に挟まずに歩いたってこと。
 成人男性がしゃぶしゃぶをポン酢で楽しむのと
 同じくらいの平均的なスピードを用いた。
 そしてそれは風景が蛇腹に見えてしまう瞬間
 おっさんの後輪ぐらいに位置して
 おれは初めて、ボイスの声を、おっさんから
 聞いた、海が近くて、ウミネコがふわふわ飛んでる。
「おまえ、オレと競争してんのか?」
 黄色みがかかった目玉をちらちら動かし、おっさん、
 おれの頭の上で卵でも産み落としてきそうな勢いとは、
 どんなだ?よくわからんけど、そんな感じで。
 キウイフルーツの表面のような気概でもって、おれの声は
 くうねるあそぶに響く、砂利でターンするように、
「ああ、待ってろよ、おっさん。すぐに追い越してやっから」
 しゃべった、おれの声、自分でも頼もしく響いた。
 正確に測るまでもなく、秒殺の目視、おっさんと
 おれの距離とは、おれがマダカスカルに居て、おっさんが
 三重県の津市に居るぐらいに感じたのは、おれも
 おっさんもいっしょだった、紺の作業着の胸ポッケの上の
 名札、ボールペンで書き潰されて、もともとの名前が見えない、
 かすかにかすかに、じねんじょって、読み取れた。
「兄ちゃん、ひょっとして今マダガスカルに居るだろ?オレは津だ」
「ああ、そうだよ。おれたちは衛星中継で話してるもんだ。時差の関係で、送料が無料になりそうだぜ、津のおっさん」
「津」
「津」
「話、変わっけど。オレさ、ついこの間、帝王切開って名のバンドを組んだんだ。ところが、オレはバンドって何する装置かわかんないんだよ」
「台所のガスが漏れたら、ピーッと鳴ってくれる装置じゃないのか?ガスは、重いから下に沈んでゆくんだ。だから、警報装置は、床に近いところにあんのさ」
「なあ、兄ちゃん、外来語とかいっぱい使わんでくれよ、津のオレにはよくわかんないからさ」
 見れば、おっさん、おでんのきんちゃくの中のおもちみたいに、
 ベターッとなってる、なってる、
 手首んとこに誤ってタバコの火を落としたみたいに、とりたての野菜だって。
 思い直したのか、田舎の民家の軒先に吊るされてる干し柿を
 なでるかのように、おっさんの、言語、アドバルーン。
「名前から想像すると、大根をひたすらおろし金ですりおろします業務に携わる人たちって感じするんだけど、それだと、じゃあ、90%は昭和ゼラチン祭りってことで、
けっこう宇宙警察だな」
「なあ、おっさん。おれは歩いてるよ」 
 おれは歩いていた、地平線が消えても、夜空のゴンドラが墜落しても、
 海岸に近いから、にきび面で、松林の間の散歩道を、描写するのもめんどくさいが、
 ふわふわしてるウミネコから天下統一の気運を感じて、金属片のおれは、
 ちょっと羨ましかったし、目指そうと思った、?どこに。
 わからん、わかりません、火葬場とか、ジャングルジムとか、双葉書店とか、
 消えてなくなることは、ムーディー、焼きそばの紅しょうがだし、やっぱ。
「なるほど、オレにもそんなふうに見えてきたよ」
 舞台の本番に強そうな、前歯の無さで、おっさんは述べた。このように。
「オレには前歯がないのさ。全部、前歯がないんさ、中学校のとき、あまりにもモテてさ、後輩とか同級生とか校長先生とかがさ、先輩のあなたの君の第二前歯くださいって言うから、オレは気前もいいし、ちょっと明石焼き食べた後だったし、全部あげちまったのさ、連中に、だって、第二前歯なんてどれかオレにはわからんくて、めんどくさくてさ。まあ、いいやって。前歯なんてあんなもの、人類にとってはただの飾りだぜ。飾りじゃないのよ前歯ははははああん」
「おれもそう言えば、会社を退社するとき、後輩の女の子に、第二トレンチコートあげたなあ。そのコート頭からかぶって、ツインルームでよく一人で、左様でございますか!ってあいずち打ってたなあ」
「まあ、おかげで、オレの前歯は、津軽海峡冬景色みたいに、ひゅーるりひゅーるりだけどさ、オレにはドラえもんがいるから、心の支えだよ」
 車のエンジンが全開であっても、陸の上をヨットが走っても、おれは駅前で
 NOVAを見ることができる、接近するように、異国文化同士。
 おっさんが夢を見てたのか、おれが夢を見てたのか、よくわからんが、
 おれは相変わらず、おっさんのほぼ後輪に位置して、併走するように
 歩いてた、たまにおっさんが声をかけてくれた、「がんばれ!Qちゃん」
 オートバイの匂いとか、バターの匂いとか、ミント系のガムの匂いとか、
 昆布茶の匂いとかはさておき、カップヌードルのカレー味の匂いは、
 部屋全体に瞬く間に充満する。
「なあ、そうだろ?おっさん」
 とおれが訊くと、
「ああ、シーフード味もそうだよ」
 曇りかけた空の下、おっさんの赤い帽子がめきめき赤くなっていって、
 あ、梅干しと、おれは思ったが、あなたはどうだ?
 これほどおれはサッカーのレフリーが駆けつけてくれないかな、と
 思ったことはない、あの黒の服着た、太腿がむっちり系の審判が。あの
 グランドに狂いも無く白線引きで白線を引いてくれるような審判が。
 きっとピーッと吹いてくれる、お湯が沸いたと、世界的なお湯が。
 芝生の上に昼に食べたばかりのサンドウィッチをゲロとして吐くと、
 面上に、確かにお昼に食べたばかりのサンドウィッチが見える、
 引き出しの中は何もない、届くか届かないのかわからぬうちに、納得する、
 ニュータイプのゲロった。からまったメジャー。
「津のかほりがする。これって、女の名前みたいだな。津のかほり、今度演歌歌手として再デビューしました、津のかほりです、昔、姫岸ほのか、ってアイドルやってました」
 おれは自分でも歩いてると、わかっていた。歩いてるからには、どこかに
 辿り着くべきじゃないのか?腐乱死体になっても紅茶にミルクを入れること
 ぐらいはできる、おれを振り返るおっさんの鼻の下の)(を90度傾けた模様を
 見つめた、ああ、なんて)(なんだ。
「追い越せるわけねえよ、おまえには。オレには津のかほりって演歌歌手がいるんだ。じきに、有線で顔を出すだろうよ」
沖からたゆたってきたわかめが波打際に打ち上げられるのと同じくらいの
スピードで、ようやくおれはもうすでにならず者に見えてきたおっさんと
肩を並べた。おれとおっさんとの間のタワーレコード。
「なあ、おっさん、あんた今どこだ?」
「言ってんじゃねえか、津だよ」
「おれは自分ではもう、べつのところに行ってるような気がするよ」
「何?もうマダガスカル過ぎたのか。どこだよ、いったいどこにいんだよ」
「ああ、おれはもうとっくにニカラグアさ」
 先割れスプーンの先っちょを思い浮かべていただきたい。ちょうど、
 そのときおれは、ジョギング途中のおばはんが取り損ねた
 自動販売機のつり銭の10円玉がころころ地面を転がってきたのが見えた、
 きっとそうだろう、こういうことだろうと思って、当たり前のように、
 もう白米を見ても驚くことがなくなったニッポン人みたいに、平然と、
 拾い上げ、硬貨10円なり、続けて行うふるまいが何なのかすら
 考えもしない、どぎどぎもしなければ、公然わいせつもしない、
 脇に挟んだよ、それを、10円玉を。それをしなきゃならんよ、
 そんなときが来てるんだから。楽勝。
 ぶん、と音がして、ターボでもかかったみたいに、おれは人類の進化を 
 トレースする、ちょっと上体が後ろに反れて、スピードがあがる、
 昼食時の吉野家のサラリーマンの箸さばき、かろうじて現実味を帯びて、
 これだけっていうことの、チョロQの原理。おれは自転車のおっさんを
 抜き去った。
 後ろで声が聞こえる。誰のか?はもうよくわからない。大晦日に
 慌てて網戸の掃除をしてる主婦みたいな声で、にわかに
 湿ってる、ところどころ、黴て。
「なあ、兄ちゃん、どこに行ったんだよ?オレは津だよ。まだ津にいるよ。津津津」  
 マダガスカルからニカラグアの移動距離は?そんなの知らん。
「言ったろ、ニカラグアさ」 
 誰に言うでもなく。うわずって。だけど、太腿にはびっしりと剛毛。
 おれはただ歩いてる。
 ふわふわと、ウミネコが。何かのついでみたいに飛んでる。       








自由詩 ニカラグア競争男 Copyright カンチェルスキス 2007-02-18 16:16:01
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