空の巣
水町綜助

 車は走る。

酒などなめる程度にしか口にしていないのに、なぜか疼痛があたまにしつこくこびりついている。
ウインカーの点滅音。
そのメトロノーム。運転手はハンドルを大きく右に切った。
ゆるやかな遠心力に同調して、頭痛がゆるやかに膨れ上がる。
痛みに目をすがめる。
こんな夜はそれこそ日常茶飯事だったような、そうでないような。
頭痛の痛みを切り離して、僕はそれを考えてみようとする。
運転手が口を開いた。

「本降りになってきましたね」

フロントウィンドウの水滴が、ひとつを飲み込み、またひとつを飲み込み、一筋の流れとなって落ちていく。
街灯で銀色に染まった大きな水溜まりが、雨の一条一条に震え、波紋はたわみ、打ち消しあっている。
僕はまた思う。
こんな夜は、以前にもあったような、初めて見るような。
頭が痛い。
道は真っ直ぐになり、運転手はアクセルを開ける。

「頭が痛いよ、さっきから」
僕はつぶやく。

「見たところ大して飲んでるようには見えませんけどねああきっとあれだ。偏頭痛じゃないんですかお客さん。あれは似てるから」
運転手はせわしなくしゃべる。何か調子がはずれた、うわずった声。

「天気が曖昧だったしな」

そういえば、子供の頃、僕は偏頭痛持ちだった。急な雨の日など、まるでサイレンの音のように、いつからか頭の中で鳴り始め、束の間激しさを増し、気が付くと鳴り止んでいる、というような事がよくあった。
それはまさしく、通り雨の到来と収束に同調していたので、僕はそれを幼稚な言葉で「あめ鬼」と呼んでいた。言葉が先行し、その後から発生したイメージでは、青く皺深い二頭身に巨大な黄色の目、肌は全体的に飴がかかった様にてらてらとしていた。
そしてなぜその言葉を選んだのかまでは僕は覚えていない。

ただ、そんな事があったことは確かだと僕は認識している。いや、記憶はしている。

「少し眠っていいかな?」
僕は運転手に尋ねる。

なぜ運転手に伺いを立てなければいけないのかとも思ったが、僕はきっとすこし酔っている。
今の僕にとってはこれは「あたりまえ」のことなのだ。
僕の意識は次第に甘い膜に包まれ始めた。

「歯軋りはするな」

運転手が前を向いたままそう言ったような気がした。ひどく鬱陶しそうに。定かではないが、それでもいいのだ。

「そんな癖は、たぶん、ないよ」

そう答えたような気もしたが、なにも答えず無言のままだったような気もする。
もう僕は泥に沈みかけている。

僕は眠った。


幼稚園に登園する、ある朝だった。
僕は迎えのバスの停まる、決められた停留所まで、僕を送ってくれる母を、一足先に家の外に出て待っていた。
家の外壁に沿って敷いてある、粗末な鉄板の隙間から、クローバーが生えだしているのを見たりしながら。
窓から、せわしなく出支度をしている母の声が聞こえる。

「鍵はどこに置いたっけ?ちょっとおねえちゃん!あんた出かけるの?それとも留守番してるの?ちょっとはっきりしてよ!」…etc.…etc.

クローバーに飽きて、ふと上を見上げると、軒先にしつらえられた、透明のトタン板で出来た雨よけが目に入った。
風雨にさらされ、もう白くぼやけてしまったそれは、薄曇りの空の光を透かして、それ自体が発光しているようにも見えた。
透かしてみた空に、ヘリコプターが飛んでいて、よく聞き取れない宣伝文句がトタン板に次々と書き込まれていった。

僕は上を見上げたままの姿勢で、ヘリコプターを追うように歩いていった。
すると、視界の中心に焦げ茶色の丸いものが現れた。
足長蜂の巣だった。
乾ききったそれに、蜂はもういはしないようだった。
空を透かしたトタンに作られたそれは、空の上に作られたもののように見えた。
僕はそれをしばらくの間見て、次にトタン板を注視して、そのつぎに白々しい光に満たされている空をぼんやりと見た。
そして最後にそれらすべてを、ちょうどスライド写真のように重ね合わせ、ひとつの光景として見た。
けして激しくはない空の光が、それでも少し眩しくて僕は視線を降ろした。
いつしか鉄板は途切れていて、だだっぴろいコンクリートの駐車場に入るところだった。知らないうちに僕は前に進んでいたのだった。

そのとき、唐突に、僕の世界を認識する、「それのしかた」は変わった。
それは、視点が変わっただとか、意識が変わっただとか言うものではなく、強いて言葉にして言うのであれば(それすらも確かにそれを言い当てているとは言えないが)、「世界を見る器、人間と言い換えてもいい、それ自体がすっかりすげかわった」というものだったろうか。
しかし、劇的な変化であるにも拘わらず、それが「恐い」だとか、「嬉しい」だとか、そういった感慨は皆無なのだった。
僕は騒々しくドアを閉め、小走りにやってきた母に微笑んで、その手に引かれていつもと変わらず停留所まで歩いていったのだった・・・・・・・・・・・・

からだが何かに、もの凄い力で引っ張られた。
冷たくて堅いものに投げつけられる激痛。
目を開けると、車のボンネットに、オレンジと黒で出来た縞模様のコンクリート塊が突き刺さっている。
中央分離帯のブロックだろうか。
運転席を見た。
運転手がもうろうとした面持で、シートにもたれ掛かっている。フロントウィンドウに蜘蛛の巣状に亀裂が入っている。目に何か暖かいものが流れ込んでくるのを僕は感じた。
ひどくしみる。
血だろうか。
もう目を開けていられない。
閉じかけられた瞼の隙間から、僕の横の窓が氷のように割れているのが見えた。
からだ中が自分のものではないように感じられた。
頭痛がまた激しく鳴り響いた。
それはしばらく鳴り止まなかった。
心臓の鼓動がそれに同調する。
息が詰まる。
頭を抱えようと、腕をあげた瞬間、頭痛は遠く木霊しはじめ、どんどん小さくなっていった。
すべての認識は曖昧になった。
記憶が渦巻き、識別はその垣根を無くした。
それらが溶け合ってうねり、怒濤のように炸裂して、次の瞬間空白になった。
そして、その静まりきった頭の中に、あの空の上に作られたもぬけの空の蜂の巣だけがくっきりと浮かび上がった。


散文(批評随筆小説等) 空の巣 Copyright 水町綜助 2007-02-09 17:34:39
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