R
芳賀梨花子

子供の頃からその駅前には大きな百貨店があって、今は再開発かなんかで、まわりの高いビルに埋もれるようになってしまったけれど、私にとってその百貨店は世界で一番すばらしいところだった。百貨店の正面玄関のすぐ横に大きなウインドウがあって、そのウインドウの中には、ぬいぐるみのくまさん家族が暮らしていて、私とお父さんは、ママが紙袋を山ほど抱えて正面玄関から出てくるまで、そのくまさん達を眺めていた。お父さんの手は大きくて、私の手は小さくて、お父さんはいつも私の手を握っているのに、お父さんはいつも私の名前を呼ぶ。大丈夫、ここにいるからと、そのたびお父さんの耳元で言うと、お父さんはにこっと笑った。私のイニシャルはR。

Rain

みぞれまじりの寒い夕暮れ。春なのに行きかう人はみなコートの襟を立て急ぎ足だ。でも私とお父さんは立ち止まっていて、映画だったらそこだけにソフトライトがあたっている感じ。でも、ウインドウの中には、くまさんたちはいない。イースターだからうさぎさんが卵探しをしているの。「くまさんいないね」とお父さんに言ったら、お父さんは少し悲しそうだった。お父さんは私の手をぎゅっと握って「パパはイースターの色が好き」だって。桜が咲く前にミモザが咲く庭で育ったからかもしれないって。

Rose

パパと会うのは雨の日ばっかりとレインコートを着た私が駄々をこねる。この間、ママが買ってくれた長靴を履くのもいやだと、私はさらに駄々をこねる。なんで嫌いなのとお父さんが聞くので、長靴をはくのは猫か子供だけだって言ったらお父さんは笑って、ぎゅっと手を握ってくれた。パパは長靴が履けなくなって淋しいって、だから私は嘘泣きをやめて、ウインドウのくまさん家族を覗いた。そういえばお庭の薔薇は咲いたかなとお父さんが心配しているから、私は舌足らずな薔薇が咲いたを歌ってあげた。

River

私たちは特に夏休みのウインドウが好き。くまさんも夏休みで楽しそうだったし。そういえば、このあいだプレゼントした本は読んだかなと、お父さんに聞かれた。夏休みの読書感想文を書いたのよ。ありがとうパパといったら、お父さんはとっても喜んで、そうか、そうかと私の手をぎゅっと握り締めてくれた。パパ、痛いよといったら、パパは小さな頃ハックルベリー・フィンになりたかったんだって言った。

Rubby

お父さんと百貨店のウインドウの前で会うこともなくなって、私は買えないやしないのに宝石売り場で光る石を見ている。お父さんが大人になったら買ってくれるといっていた誕生石の指輪。私は七月生まれだったけど、私が見つめていたのは6月の誕生石。ごめんね、と思ったけれど、お父さんは約束のことなど忘れてしまっただろうと、その場から静かに立ち去り、ボーイフレンドとの待ち合わせの改札口へ急ぐ。

Rag

お父さんの車にはいつも赤いタータンチェックのラグが入っていて、私はそれが好きだった。たとえ、車を乗り換えたとしても、そのラグだけはいつも車の後部座席においてあった。小さい頃、このラグに包まって眠ってしまって、目覚めたときにはラグに包まれたままベッドにいた。ありがとう。素直に言えたのはあの頃だけだったのかもしれない。寒い夜、時々、そのラグを引っ張り出しては、お父さんの残り香を探す。でも、私は時間という螺子を回し続けてしまったのだ。無性に誰かと話したくなって、ラグに包まったまま電話をかける。

Reason

私という人間は、いつも誰かを責め立てて理由を聞き出したくて、でも、誰も答えてくれなくて。悲しそうなお父さんの顔、薄暗闇に消ることもできない、曖昧な笑顔。冬の湖面のように私が静まっていくまで、そのままでいて。でもママはそんな私が嫌で、死ぬ間際は私が娘だって言うことすら忘れ、日々、弱っていく母を見続けている私、薄暗闇の顔。Reasonのアール。これは私が自分自身に名づけた名前のイニシャル。最後の名前。

だから、お父さんは勝手に骨になって、勝手に石になってしまった。石に会いに行ってもちっとも話してくれない。でも、冷たい雨の日に百貨店の正面玄関で雨宿りをする人並みをすり抜けようとしたら、RainのR、あなたがつけてくれた名前で呼び止められた。お父さん。私はあたりを見回して、でも、あなたはいなくて、それから、Riverのアール、Roseのアール、Rubbyのアール、Ragのアールと呼び止められたびに私は最後の名前を振り払えずにいる自分を知る。このままずっとヒースの荒野にさえ解き放てずに、あなたに似た男を捜し彷徨う。激しい風はあなたにつけてもらった名前を奪おうとして、だから私は必死に歩く、歩き続けるあてもない旅路を。




自由詩 R Copyright 芳賀梨花子 2007-01-11 10:27:59
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