海の底にて/由比良 倖
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 洗貝新 

海の底にて、二度くらいさあっと読ませてもらいました。
その昔「文学極道」という投稿サイトがあって、立ち上げたダーザインという詩人が居ました。(否、居るのだろうけど、所在は不明です) 彼が書き上げた長編詩(小説)がありました。タイトルは確か女性名だと思うけど、忘れました。いまとなっては在った。という残像だけがあたまの隅に小さく残っています。あれはワイヤードというネット空間を通じて彼女への想いが綴られる物語だったかと思うのですが、その信憑性はノンフィクションなのかフィクションであったのかは定かではありません。ただ言えるのは彼女がインターネット空間を彷徨う、筆者の具現化されたもう一人の姿なのではなかったのか、ということです。
書物という題材は違えども、この作品にも同じようなことが言えるのではないかと…

冒頭の「記憶自身が自殺するような朝にね、~」この入りには興味を惹かれますが、「内に置かれた文全体が長いですね。記憶自身が~自身は必要ないと思われる。そして冒頭は「百年後には誰も私たちのことを知る人なんていないと~ 記憶が自殺するような朝にね、」と最後に持ってきたほうが、この殺し文句の印象はより強くなる。と僕には思われますにゃん。
この冒頭から~ある朝早く真由は~までの文章は全体的に少し散漫な印象で省かれてもいい箇所が多い気もします。ちょっと読み辛かった。
短い為りに好い印象の作りではあると思います。
ひとつだけ、この読み物をアンビエントに孤立化した立場から眺めたとすれば、やはり語り手の対象相手として現れる真由という異性の存在でしょう。
先に述べたインターネット空間とは異なり、彼女の存在は書物という創造の空間が作り出した、筆者の具現化された思想の象徴であろうと思われるのですね。
このことが読み取れてくる。なのでこの語り手と真由の存在をイメージに混在させるのであれば、神秘性にあふれる真由の姿をもう少し掘り起こして描いてほしい。
こういう神秘性を帯びた題材は長編詩(小説)に描かれてもいい物語にはうってつけですよね。真由という存在を異なる様々な姿の話に変えることで…。
まあ、短い作りなので仕方はないとおもいますが、という感想でした。



---2025/02/05 18:37追記---
- あまね 
- 山人 
- ジム・プリマス 
ノルウェーの森の、言葉を連想しました。

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