以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- - りつ
- - るるりら
- - 朧月夜
- まず「湿雪」という言葉をわたしは知らなかったなあという情けない感慨に打たれ、このある種洗練された、また透徹した響きを持つこの詩について、こういうふうきっぱりとした感慨を持っている作家、いたなあということをまず感じました。誰かほかの作者、とくにもう亡くなっているような作家と似ている、などと言うことは作者にたいしての侮辱のようにも思うことは思うのですが、あえて一人挙げるとすれば、正宗白鳥の書くエッセイに近いものがあると感じます。正宗白鳥は詩人ではないですし、ここに書かれていることは、今までずっと山人さんが書かれてきたことからの延長上にある、<ある瞬間の思惟、その光輝>という風に思うのですが、もう雪も降ったのでしょうか? 仙台では降雪はまだだったはずですが、山のほうでは初雪も降っているのかな……そのへんの記憶はあいまい。秋と冬のあいだの短い間隙が、それにたいする<人間の感情、感性、情感>ともからみあって、詩として昇華されているなあ、ということを思います。山人さん独特の、詩のなかに散文的な美しさと秩序があり、逆に散文のなかに詩的な美しさと秩序があり、ということの一つの収斂した形(造形)ということを思い……あと、「しらじたしさ」は修正しましょう。^^ ここに<他者>は登場しませんが、それが良いことなのか、悪いことなのか。悪いことでは、まあ、ないのでしょうね。梶井基次郎ですとか、堀辰雄にも、あえて読者に踏み込ませる対象を自己に絞っている作品もありますし、まず読者の感覚と思惟を<自己=作者>の感慨に引き込む、というエッセイ的な要素もあるように思えます。ですので、それが<自由詩>として書かれているところに、山人さんのオリジナリティーを見るものです。強い主張や特別な抒情をされていないので、少し見逃されそうな詩にも思いますが、見過ごしてほしくない詩の一篇かなということを思います。
追記なのですが、この詩のなかではあくまでもこれは「冬」であると描写されていますが、わたしとしてはやはりこれは「秋と冬との間隙」というふうに思うのですよね。それがあくまでも「冬」と書かれているところにも、いろいろと感じるものがあります。
- - ただのみきや
- - 田中宏輔
- - キャサリン
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