白装束の指先、エスノクラシー(改訂)/ひだかたけし
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- おぼろん 
「ガザ」はちょっとなあ……。いや、時事詩作大いに結構ではあるのです。ですが。この詩ではフライングしているような。……わたしはヨーロッパにおけるユダヤ人史なども調べたことがあるのですが、ロマ族などとは違って、ユダヤ人にはたしかに後ろ暗い背景もあり(ホロコーストを肯定するものではありませんよ)、今は必要以上に「目には目を」を行使しているとは思うのです。ですが、やはりデリケートな問題、デリケートな言葉なのではないでしょうか。ひだかさんが、「音韻」として言葉を使われたのであれば、もう少し配慮を、と思うものです。

ひだかさん、そこは「キーウ」にすべきだったと思いますよ。ガザとかイスラエルとかは、イデオロギーに属する言葉になっていますから。
---2024/04/16 21:12追記---

うーん、やっぱりそこは「どっちにとってのガザなの?」という問いが喚起されるものだと思うのですね。ユダヤ人にとっての、生きる意味というのはある、しかしアラブ人にとっての、奪われる理由はない……と。じゃんけんくらいで国の勝ち負けが決まるのであれば、わらってすませばよいのです。ですが、ここ、この詩において「ガザ」を出すとすれば、ユダヤ人とアラブ人との歴史的背景が必要になってくると思うのです。一行でもね。その一行に、かなりの(2000年くらいかな)歴史の重みを込めなければいけない、そんなことはなんとなく思うのですね。
---2024/04/16 21:22追記---

わ。作品を変更させてしまって申し訳ありません。ただ、なんたらかんたら詩にとってあるべき姿勢というのを鑑みたとき、ここは「キーウ」が正しいとおもいます。フォークランド紛争や湾岸線戦争を「ゲーム」のようにに見てしまった世代にとって(ここも中略します)戦争は「ニュース」における事件になってしまっている。わたしなんかは自衛隊を礼賛しているから、ネトウヨで片づけられても仕方がないと思うのですが、「詩人」にとって、今「ガザ」か「キーウ」か、というのは大きな問題なのですね。今──ベトナムなのか、イラクなのか、シリアなのか、ウクライナなのか、エジプトなのか、ということは重要な問題で、言葉だけでも「キーウ」というものを出してほしい、ということは感じるのです。もし、詩作の姿勢を変えてしまったのであれば、すみません。
---2024/04/16 21:45追記---

---2024/04/16 21:57追記---

今のところの最新のコメントに基づいて。そこは、詩人(あるいは作家)の力というものを信じましょう。信じても良いと、わたしは思うのです。
---2024/04/16 22:03追記---
- 田中宏輔 
- atsuchan69 
- こしごえ 
- ヒロセマコト 
 
作者より:
おぼろんさん、

うーん、どうなんだろ…

僕は、近現代を貫通しているエスノクラシーの典型として『ガザ』を
選択しただけなんですが、

もうパレスチナ・イスラエルにせよウクライナ・ロシアにせよ無茶苦茶自民族中心主義他民族蹂躙主義跋扈し、

ハッキリ言って第三次世界大戦一歩手前まで行ってるわけじゃないですか
そこを抉り出したく書いたのですが…

取り敢えず、

ありがとうございます♪

追記

パレスチナアラブ人地区は、イスラエルユダヤ人からすれば自分達の住処と捉えられているわけで、
それは自民族中心主義エスノクラシーの典型だと
だから単に音韻として当てたのでは無い のですよ、
別にキーウでもよかったのです。ゝ

---2024/04/16 20:51追記---

---2024/04/16 21:25追記---

〉ひだかさん、そこは「キーウ」にすべきだったと思いますよ。ガザとかイスラエルとかは、イデオロギーに属する言葉になっていますから。

あ〜確かに、云われてみれば…
エスノクラシーだけでは片付けられない複雑な歴史的経緯が在るわけで

おぼろんさんが指摘されてるのはまた別な観点からかも知れませんがっ…

うーん、わっかりました、キーウに変更させて頂きます。

---2024/04/16 21:42追記---

追記

しっかし最早、民族とか人種とか血縁とか要するに血の繋がりで争ってる時代ではないはず なのになぁ…
なのに、未だに民族エスノクラシー(第一次大戦にせよ第二次世界大戦にせよ大元の原因)で争って居る・第三次世界大戦も同様の根因で始まろうとして居る

この矛盾危機感切迫感が僕には在ります、片方の自分には という意味デスガ。ゝ



---2024/04/16 21:49追記---

---2024/04/16 21:51追記---

---2024/04/16 22:15追記---
 

---2024/04/16 22:21追記---


追記

〉 今のところの最新のコメントに基づいて。そこは、詩人(あるいは作家)の力というものを信じましょう。信じても良いと、わたしは思うのです。

詩人、詩書き人の力 ですか…
や、チカラをツケナケレバ為りません 先ず
この平和ボケ日本において(ただしその内実はグローバル資本主義経済による新帝国主義とも言えるいよいよ熾烈な経済競争戦争による格差拡大社会なわけですが…)

もう一方の自分とはそういう生活の立ち位置において です。

僕は小学三年〜四年に日教組の担任教師にある意味感化され、更に小学五年〜六年にかけて全日教連(だったと想う)の担任教師に感化され
その二人の影響が矛盾分裂的に統一されて在ること凄く強くて

特に前者日教組のニヒリスティックな教師が、クラス最後の授業にて『もずが枯れ木で』を生徒全員の前で歌ったのですね。

其処に込められた哀しみ、あぁこれは何か普遍的な想いだと当時直観して未だにそのヒビキ反響して居るのですね、

(正にひたすら進行する時計時間に垂直に炸裂貫入して来る瞬間、キルケゴール云う処の「それまで存在していなかった永遠がこの瞬間と共に存在を開始したが故に、君はこの瞬間のことを時間の世でも、永遠の世でも一瞬たりとも忘れることはできなくなるだろう」です)

なので同曲を引用した次第です。

なんか横道に逸れたかもしれませんが…

--2024/04/16 22:31追記---

---2024/04/16 22:48追記---

---2024/04/16 22:56追記---

---2024/04/16 22:59追記---

---2024/04/16 23:10追記---

---2024/04/16 23:13追記---

---2024/04/16 23:15追記---

---2024/04/16 23:27追記---

---2024/04/17 03:59追記---

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