垂れ下がる午後/山人
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- おぼろん 
山人さんがいらっしゃると、良い文章かどうかの前に、「来てくれたのだな」といった安心感があり。森田さんや、いなくなられたこほうさん(漢字が分かりません)などもそうでした。山人さんの文章は実は読者に何を思えと思って書かれているのかがよく分からず、散文作品の場合読み飛ばしてしまうこともあります。老眼なので、縦書きだと注意力が維持できないのです。作品に対するコメントでなくて、申し訳ありません。わたしは一般的に解題ということを好まないのです。山人さんの作品を見ると、(良いと感じてもポイントをつけないことが多々あります。偏屈かつ天邪鬼ですみません)、おお「人が現れた」という印象をまず最初に持つのです。正確ではありませんが、無人の荒野に人が現れたといった印象です。砂漠にランボーが現れたといった印象です。柳田國男の「山人論」のような感じです。わたし自身は柳田國男の原書は読んではおらず、小林秀雄からの「聞いて知り」なのですが、一見非人間的に見えることが実は人間的だったと思わせるような、本質への回帰が山人さんの作品にもあり、(老眼なので)出来れば横書きで書いてくれれば、などと贅沢なことを思ったり。……縦書きの文章はメモ帳にコピペしたり、いちいち画面をスクロールさせながら読んだりと、大変なのです。まあ、横書き礼賛は止めておきますね。縦書きでしか表せないものが、縦書きを使用する作者の方たちにはあるのでしょう。何を思えば良いのでしょう。実は、わたしの場合、山人さんはお元気だろうか? ということなのです。詩人の姿勢などではありませんね。俗物の姿勢です。「つまり、あまり思考したくないのである」という表現に、はっとしました。ならば、「以前は思考していたのだ」と。わたしは、アンドレ・ブルトンが唱えるような「精神のオートマティスム」が好きではなく、さんざん思考されたうえに綴られた文章を好みます。この嗜好、多分アラガイsさんなどとは真逆でしょう。ですので、今回も「来てくれた」と思うものなのです。世間話のようなコメントで申し訳ありません。作品の感想としては、今回もやはり意味ではなく人が提示されている、と感じます。
- 田中宏輔 
- 鳥星 
 
作者より:
朧月夜 さん、ポイントコメントありがとうございます。
 詩に関しては自分の中ではもう出尽くした感があります。
 正直言って、こちらにお世話になって14年が経ちます。かなり多くの作品を書いてきたと思いますが、今残っているものはおよそ1割程度以下ではないかと思っています。それほど多くの作品を削除してきました。私の作品を思い、ポイントやコメントをつけてくださった方々には申し訳ないのですが、現実的に残しておくことができない作品も多々あったものですから。
 現在残してあるものは、この先もずっと残し、墓の中まで持って行きたい作品が多いです。
 私の創作はどうしても暗い部分が多く、妬みや自信喪失などの負の部分が多いのは、どこかそれを発散したい、浄化したいという気持ちの表れなのではないかと思っています。落ちた心のを如何にさらに深く落ち込ませることで、やがて何かが生まれるのではないか?いや生れるはずなのだという淡い期待、ネガティブではあるけれど、それはアクティブでポジティブなものに向かって行く段階なのだと。そう言った物が私の作品の根底にあるような句がしています。しかし、最近ではそういう語り口だとか手癖だとか、そういう自分的な物言いが非常につらくなってきていることも確かです。かといってメタファなものにあこがれてきた経緯もありますが、温度の無いメタファなものは書く年齢ではないと思いますし、なにか別なものという特別なジャンルのような文体が書ければ、と思い始めていることも事実です。ただ、そういうものはなかなか書けそうもありません。拠って、散文的な日常の中でのポエジーを描いてみたりする昨今ではあります。

 私の安否でしょうか。というのは少し大げさな言い方かもしれませんね。でもそのように思っていただけ嬉しく思います。
 朧月夜さんの文章の的確な返信になってはいないと考えられます。横書きの件、検討したいですね。
 重ねてありがとうございました。
---2024/03/26 04:52追記---


田中宏輔さん、 
鳥星さん、
ポイントありがとうございます。 
 

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