そのサラウンドで/竜門勇気
 
ポイントはありません。
 
作者より:
昔、何も自分のものだと思ってなかった22年くらい前の中学生ぐらいだったか18年くらい前の20歳過ぎた頃か急にラジオが聞きたくなってダラダラ寝る前にやってたころ、声優さんっぽい感じのパーソナリティがやってるっぽい感じの番組のエンディングかなんかっぽい感じの曲の中で印象に残ってたフレーズ。「その(曖昧)サラウンドで~(サウンドで~かも)」
思い出してネットで検索をかけたものの”サラウンド”で検索したところクラムボンがヒット。それはそれで大好きになりました。めちゃ聞く。でもあの思い出の中の何もうまく行かないなかで受信状況が微妙な音で聞いたあのフレーズ、みたいなものってもうこちらサイドの閉じたアンプの中でフィードバック起こしまくってハウリングみたいな完全正弦波になってるんですよね。多分今なんかの拍子に再度出会ったところで現在の耳で聞くと正弦波と重ならない倍音とかも混じっちゃって結局なんか違うなあ、とかいやこの曲じゃねえなとかなってもうあの経験も感情も来ないんでしょうね。
でも、そんなことはどうでもいいことなんですよ。幻想があって、それが壊れたとかそのままにしておけばよかったってのは好きじゃないんですよ。ぶっ壊れた。違った。期待外れだった。そう、現実は僕の思うがままの美しいなにかじゃなかった。それがどうして過去に浴びた経験を洗い流すんですか?

あれはまがいもんだった。僕は騙されたのか?
そんなことないですよね。そのままにしておけば幻想は保たれたのか?
あのときあんなに素晴らしかったものはこんなもんだったのか。
くそじゃねえか。
あのとき僕は馬鹿だった。あのときの僕が感じたものは浅はかな無知がなせる意味のない信仰だった。あれは安っぽい未熟な半端もんだった。
それは僕が感じた気持ちとは関係ないですよね。

だから僕は自分の中のハウリングの正体をさがしてこういう詩を書いたりしたのでした。
本物とどれだけ遠くなろうと自己の帰還回路の中で感情の、経験の、不安定な体験の純化をする。同時に原点に対して不要な畏れを持たない。
自分がどこから来たのか?それを想像したり類推する時に、そうであってほしくないものを除いて、こうであってほしいものだけを揃えて、気持ちよくなるだけの営みはもう少しヤキが回ってからにしたい。
涙を流せるうちはそうするけど、それがめんどくさくなったときは別のことをするよ。

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