貝吹明さんの『【批評祭参加作品】思うこと』を読んで、いまさら思ったこと。/
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- ヨルノテガム 
あ どうもこんにちは ほとんどはじめましてですね
たまたま今見てて 前の話も思い出して
散文読んでみると なんだかわかり易く書き加えられてて
面白い表現が沢山あって良かったです
>拡大したり縮小すると、それだけの操作で、僕たちが
>知覚することの出来る対象物の性質や意味が著しく
>変容してしまう可能性はある
32インチ Y/N も面白かったし
>監獄やどうぶつ園の檻の鉄格子をそっくりそのまま
>拡大してしまえば、中にいる者にとってのその鉄格子の
>意味もまるで変容してしまう
この例え スゴク面白いですねw なんだか散文というより
詩のアイデアが詰まっているような文ですねw

>主観を超えてあるものが記録されている可能性
僕はこの言葉を見たとき「記号」を思いましたね
普遍性を伴なった、魚で言えば 新鮮かつまだイケル!かつ
抽象かつデタラメなもの それらを全て感じるような
モノって表現できればいいですね それは記号に近づく
のじゃないかなぁとも想像します

僕の個人的な体験を話すと 画集で見たゴッホの絵の印象と
実際展覧会で見た絵の印象は百八十度違ったことがあって
画集では 狂気の画家 極彩色の燃え上がるインパクト
というような派手な分類として憧れてたんですけど
実際に絵を見ると この人は 絵の画面で 本当に「調和」を
求めているような優しい印象を強く受けて 画集と光の下で
見る本物との画質の違いに驚きました 全く耳を切ったような
エピソードの人に思えなかったのでした 画集は一般的に
色がキツイと思われます そういったショックは
現代人ならではの 架空とリアルの違いやズレ だと思います

前の文に新たに切り込んでいくような姿勢に感心しました
僅かな差異、想いなどをこれからも 表現していってください
読者として興味を持つひとも また多いと思います 
- 大村 浩一 
読みこなし方というか、説得が面白かった。
こういうものを皆もっと書けばいいのにな。
消しちゃうのが、ちと残念。
- 相田 九龍 
- 北村 守通 
以下の方がポイントなしでコメントを寄せています。
- まどろむ海月
荘子の「知魚楽」、面白いですよ。

---2010/05/16 11:23追記---
 手術するかどうかでやたら病院通いと検査が続いた後、若干の余裕ができたのですが、つまらぬ人にかかわって、こんな返信があったのを、今日まで気づきませんでした。題から想像して論じてしまうところが、らしくておもしろいですけど、さすが直観力がいいですね。
 荘子と古代の論理学の大家と言っていい恵子が散歩していました。橋の上で、荘子が渓流を泳いでいる魚を見つけ言いました。「御覧、魚が実に気持ち良さそうに泳いでいるではないか。」恵子が「君にどうして魚の楽しみがわかるのだ」と言うと、「では、私の心には、魚の楽しみが分からないということが、どうして君に分かるのだ」と荘子が応えました。すかさず恵子は「もちろん君ではない僕には、君の心はわからない。そして魚ではない君には、魚の楽しみはわからない。どうだ、ぼくの論理は完全無欠だろ。」と応えます。しばらく黙っていた荘子は次のように応えました。「話を元にもどそう。あの橋の上を通った時、私には確かに魚の楽しみがわかったのだよ。そして君にも、そのような私の心がわかっていたのだよ。」
 まあほぼこんな話ですが、面白いのは、ノーベル物理学者の湯川秀樹が、この話が好きで、「私はいわば、魚の楽しみを知るために、物理学をやっている。科学の根本では、論理より直観の方がはるかに大切だ。」というように書いていることです。

---2010/05/21 09:28追記---
 ツナさん、ご心配おかけしごめんなさい。最近退会者が増え,貴重な詩や散文が消えていくのはとても残念なのですが,何とかしたいと思ってもこじれるばかりでは…
 あなたのやさしさに感じいっています。

 
作者より:
この散文はそのうち消えるよていです。
Hさんがちょっと言ってた、パブリケーションの問題についてはまたこんど。
---2010/03/12 08:11追記---

お読みいただき、ありがとうございます。



ヨルノテガムさん

無断でコメントを借用させていただいたうえさらに丁寧なコメントまでいただき、なんだか申し訳ありません!
貝吹明さんの投稿文につなげてこの文を書くうえで、ヨルノテガムさんの視点はとても大事なものだとおもい引用させていただいたのですが、

>僕はこの言葉を見たとき「記号」を思いましたね

このコメントもまたとても鋭く重要なものだとおもいました。
というか僕もこの散文を書きながら半ばずっと「記号」のことを考えていました。

ええと。つまるところ、たとえば、一枚の絵の中に描かれているものを見る(読む)にしても僕たちは、基本的には
絵の要素を記号的に、言語的に、概念的に、あるいは慣習的なものに従って相対的に、さまざまにカテゴリー化しながら解釈するわけで、

>普遍性を伴なった、魚で言えば 新鮮かつまだイケル! かつ 抽象かつデタラメなもの それらを全て感じるようなモノって表現できればいいですね

絵にしても、詩にしても、何かを表現するうえでこの意識というか姿勢にはとても共感します。

絵画知覚に限らず、僕たちの知覚そのものの構造―人間的な経験である(でしかない)こと自体―がすでにひとつの記号系だとおもうのですが、しかし、
それでもいかなる僕たちの認知や解釈にも左右されずにそこにある鉄格子とは、僕やゴジラがそれぞれの身体的な特性によって通れたり通れなかったりしても(変わらずに)そこに在りつづける鉄格子とはなんだろう、と、、そういうことを考えながらこの文を書きました。

ゴッホの絵の話、興味深くおもしろかったです。ありがとーございました。


大村 浩一さん

うう。コメントありがとーございます。

---2010/03/12 09:28追記---


(まどろむ海月さん 遅ればせながら、おすすめ本ありがとうございます。「知楽魚」。何やら楽しそうな題ですね。荘子ほぼよんだことナインで、推測するしかナインですが、、、いずれ。)

もしかしたらすでにお察しのことかもしれませんが、魚の心の内容はわからない、魚と同様に人げん(他者)
のキモチも永久にわからない、不可知論的に自分の経験や認識の外のことはわからない、世界はすべて
自分の脳が生み出すマボロシかもしれない、、とまでは言わないけど、とりあえず外界があるとして、ぼく という
フィルターを外したほんとうの世界はどーなってるのかわからない、クラスメイトの あの娘 がみている世界と、
ぼく のみている世界とでは違うのかもしれない、だとしたら世界は生きものの数だけ存在するのかもしれず、世界
は world じゃなくて worlds なのかもしれない、そして「生きもののいない世界」を想像してみたところで、
ぼくの存在は消せなくて、やっぱりそれは(畳の上に寝転がっている)どこまでも ぼくの世界 にすぎない、魚には魚の、
ミツバチにはミツバチの、人げんには人げんの、君には君のそれぞれのあるいみで等しく正しい世界があって、
でも無限にありうる worlds のメタレベルには、それらを包み込む全体性とでもゆうか、客観的なひとつの、
誰にとってもあり、誰もが部分的に利用し、誰のものでもない world(まったく、イデア論やカントに戻りたいわけではなく)
を仮定することができるかもしれない(そしてその唯一の world や自然科学を、さいごの「大きな物語」と、無意識にぼくは
呼んでいるのかもしれないけど、それすらもどこまでもぼくや近現代科学(人間的なフィルター)の定めた暫時的な限界にすぎない(けど概念がないと観察すらも成り立たない))、
でももはや、すでにぼくにはほんとうの world と、ぼくの world や、それぞれの無限にありうる worlds との差異を区別する
こと自体がムリそうなところまできてて、だから内とか外とか、主観とか客観とか線引きせずにいったんすべては現象として、
記号としてとらえるほかないのかもしれない、、ンだけど、たとえば昆虫やどうぶつの知覚を例に出すまでもなく
ぼくと先天的な盲人の知覚(聴覚や触覚やあらゆる感覚が構成する世界)でさえ想像を絶するほどに違うはず、ナンだけど、、
それでもたとえばだーうぃん的にいえばぼくたちは内的な過程によってではなく、圧倒的な外部の環境に依拠して淘汰され進化してきたわけで、
そもそも知覚の最終目的が部分的にであれ外の世界を再構成(or 反映)することにある、というふうに考えたとき、ぼくやあなたや盲人や魚の worlds と、世界とは、それでも、ぼくがおもっているほどにはかけ離れたものじゃないのかもしれない、、とおもいこの文を書いたのかどうか、、忘れました。

お読みいただきありがとーございました。

---2010/05/09 03:45追記---

貝吹明さん

......お待ちしておりました。
とゆうのは半分うそですが、この拙文をはっけんしてくださりありがとーございます!
おそらく貝吹さんが「ある」と感じたものは、貝吹さんや他の誰かがはっけんしたりしなかったりしても、いつまでも、依然として、その絵の側に「ある」ものなのだとおもいます(あえて、そう考えます)。
やわらかいミカンで釘は打てないのと同様に、それは冷凍ミカンばかり食べて育ってきた者がする、ただのカンちがいや錯覚かもしれません。アホな脳が見せる哀しいマボロシなのかもしれません。そして、ミカンは凍っていなかった。。
しかし、錯覚とは日常の生活環境のなかにおいて例外的なケースに遭遇したときに起こる、正常な判断ではあるまいか!
そして、ガチガチに凍った従来のミカンならば釘は打てる。そう?考え?て生ミカンや生キャラメルを鈍器化すべく次々に冷凍庫に投げ込むにもある程度の経験と知識が必要になりますが、
最終的に釘が打てるかどうかを?決定?しているものは、アホな脳ではなく、ミカンや生キャラメル側の状態による特性に他なりません。
ガチガチに凍った生キャラメルは釘を打つことが出来る、し、カーリングのストーンとして利用することも出来るかもしれない。。
そんなことをいちいちはっけんしたりしなかったり、丁度いい硬さの温度調整に失敗したりするのもまた愚かしい人げんですが、
誰かが何時それをはっけんしようがしまいが、冷凍状態を見誤って全身キャラメルまみれになってしまおうが、、
ガチガチに凍ったミカンや生キャラメルで釘を打つことができる、そのことに変わりはありません。たとえそれをはっけんする人げんがひとりもいなくても、人類が滅び去ったとしても、そのことに変わりはありません。
遠い星で、生キャラメルの海におぼれそうになっている蟻型エイリアンも、ガチガチに凍りついたキャラメルの上なら陸と同じよーに、毛の生えた足で闊歩するのかもしれません。。

何がいいたいのかさっぱりわかならくなりましたが、、いつかつづきを書かれるのをたのしみにしております、半分うそですが、、カゲながら。

---2010/05/11 05:45追記---

まどろむ海月さん

追伸、ありがとうございます。

なるほど。。おもしろいですね(あ、僕のそのコメントは「知魚楽」と題からピコーンとひらめいて、「知魚楽」について論じているのではなく、ええと、投稿文(「貝吹明さんの〜」)の背景について恥ずかしげもなく自己解説してるだけの代物です。。)。

そして、ほんとうにおつかれさまです。
どれくらいのひとが今回の騒動(?)であがる投稿文やそれに付随する多くのコメント(僕もしてしまった)に
どれくらい身を寄せて読んでいた(いる)のか知る由もありませんが(まったく認知してないユーザーもいるでしょう
僕も入会し立ての頃は他人の作品とかほとんどみてなかったし...)、そしてそのとらえ方(おそらく、僕と海月さんとでは
また違ったものでしょう)はどれあれ、身を引き寄せて読もうすればするほど、海月さんがsalcoさんの散文に
コメントさていたような気持ち(引用はしません)になってしまうのではないかとおもいます(そこから離脱し距離をとるという選択をも含めて)...。

僕にいえるのは、わからない、ということだけです。。
人の心は、他人の生のあり方は、よくわからない。。(自分についてもそうかもしれませんが..)

お体どうぞおご自愛くださいまし。

---2010/05/19 02:00追記---

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