農家切り捨て論のウソ、の嘘/はらだまさる
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- soft_machine 
ブログで読ませてもらってた。
何か書かなきゃと思っていたけれど、遅くなってしまった。
大切なことを綴ってくれて、感謝。

俺の母方の実家は茶農家で、ガキの頃は毎年茶摘みを手伝った。
稲刈り、麦刈りしながら、山間農家の貧しさは、街の貧しさの比較にならないことを知ってる。都会風に言えば悲惨なまでの貧しさだ。
祖母は、薪で風呂を焚いていた。米を炊いていた。風呂が石炭風呂になった時は感動したんだ。冷蔵庫は家の前の小さな川だったんだ。
娯楽品といえばラジオ一個しかなかったけれど、家の外にも中にも、生き物の生死がたくさんあったんだ。
子ども達は、元気すぎるんだ。山中、駆け回って育つんだ。
この教授に言いたい。
この健康の塊のような子ども達の親は、農家だと。
この教授に見せたい。 山隘の太陽に恵まれない土に、へばりつくように触れて生きる、国からも県からも見放された僻地の農家の子ども達を。採れたての山菜を採って、沢蟹を煮付けて、山女が釣れたら七輪で炙る親を見て育った子ども達を。
ナイフ(肥後之守)を皆持っているが、竹を削って弓矢や釣り竿を作って鉛筆を削るしか用途を知らない子ども達だ。村にはどこにも売っていないおもちゃを自作するしか能がないナイフだ。

都会に移り住んだ時、食べる、という当たり前のことが、あまりにも金に換算されている様に戦慄したことを忘れない。それが悪いこととまでは言わないが、とてつもない不安を感じた。
貧しいから一家心中するのではない。心の問題だ。
真に助けが要るのは、この教授のように病める人間だ。
- たりぽん(大理 奔) 
- 深水遊脚 
 論旨に賛同します。そして様々なことを考えるきっかけになりましたので、ポイントを入れます。

 ただ、この教授の授業を受けたことのある身としては、金の亡者とか、病んでいるとか、自民党の手先、等々、必要以上の批判をこの教授に向けないで欲しいな、と思います。大学の名前も正確に覚えてあげてください>某氏。無理にとは言いませんが。

 おそらく問題への視点が異なり、噛み合っていない部分は多々あります。そして自分の専門分野、興味のある分野における正しさをそのままぶつけ、他に関心を持たないままでは議論は噛み合わないままです。

 うろ覚えですが、棚からぼたもち的な収入(補償金や不動産の売却収入など)が農業の質を低下させてしまうことに対する批判がこの教授の大筋の主張だったと思います。授業もそんな感じで展開していました。棚からぼたもち的な収入は、いい作物を作ろうと懸命に努力する農家にとっても悪影響をもたらすのではないでしょうか。補償金等でいい思いをしている人たちがそんな真面目な農家に冷たかったり、露骨に潰しにかかったり。完全に私の憶測ですが、そういう話もないとも限らないと思います。それに対してはこの教授の視点も有効なのではないかと思います。
- mizu K 
- 生田 稔 
私たち日本人のことをよく考えての論文だと思います。さらに研究して道を見出すために書き続けられますように。
- あおば 
- 佐々宝砂 
私の実家は茶業農家で借金作ったんで、ね。農家ってのは実際ずいぶん借金してる。
- 角田寿星 
食に関する限り、「安いものには何かウラがある」てのは、やはり常識らしいです。ファストフード然り、回転寿司も然り。
- 夏野雨 
論旨に賛同します。

僕の生家は兼業農家で、まわりもそうで、まったく零細ですが、
サラリーマンをしながら農家もやるというのがどのぐらい大変なことか(そして豊かなことか)この経済学者はまったくわかっていない。
農地を売却して大金だなんていうのも、聞いたことありません。不動産屋じゃあるまいし。そもそも代々の土地を売却したいと思う人がどれほどいるか。売りたくないから会社員なのに休日も農作業をしているんじゃないでしょうか。

自分の食べ物を自分で作らず、人に任せていることの恐ろしさ、土に触れないで育つことのあやうさについて、考えました。書いてくださって、ありがとう。
- ノクターン 
- A-29 
まずスギ・ヒノキ林を元に戻す。それから砂防ダムを撤去していく。この作業を数十年かけてやってく間に食料自給率を上げる。
- 大村 浩一 
- リーフレイン 
農作物ってなあ、非常に厳しい市場原理で値段がつきますんで、たとえ労賃を0に勘定して、それでもかかる諸経費が1反あたり20万葡萄なんかでも、1P100円の卸値になっちゃったりします。700房の葡萄を作ったとして、しかも天候も、虫被害も、鳥や野獣の被害もなかったとして、1p100円では70000円の収入。大赤字になってしまうわけです。毎年がはっきりギャンブルです。ギャンブルに生計を預けるわけにもいかないので、勢い兼業農家になっちゃってんのが実情ですね。ここ10年あたりの農産品のデフレでいかに多くの農家が実質的な生産を諦めたか。。。(10年前はこの葡萄1p450円だったんですよ、、まあはっきり言えば栽培品種を変えるべきなんですよね。だけどどの品種も似たり寄ったりの事情だったり、、あるいはあまりにも新しいものは栽培技術がなかったりするんですよ。)
- 手乗川文鳥 
今年、うちのトラクターが故障して、新しいのを購入しなければならなくなりました。その為、普段使っている車を売り捨てて、これからは農業用に使っていた軽トラ一台になることになりました。
父は子供の頃から私の祖父母にあたる両親から「こき使われて」青春時代を使ったし、就職してからも農業での収入は殆どもらえないのにずっと手伝い続けてきました。そのため本社への異動も断り続け、出世コースからは自分から離れて、母と父は米を作って、野菜を作って。
祖父母ともに既に他界してますが、定年前に父は会社を辞め、今は継いだ土地を母と一緒に耕し続けています。って何が言いたいのか分からんなってきましたが、何故農家がそこまで言われないかんのかと記事を読んで思いました。はらださんの言葉に同感です。土地を売りたくても調整区画とかで売れないのです。私ら子供は農業の手ほどきを受けずにきて、両親共農家は自分らで終らせるつもりのようですが、そのことについてずっと考えてます。
あと、何年か後にその土地に道路ができる予定があるらしいからと言って、土地を売ってくれと言ってくる人もいます。行政が高値で買ってくれますからね。それを知らずに素直に売ってしまう人も近所にいたりするようで、かと思えばそれ以上農作物を作るなと言う農作物生産の調整が来たりで(ほんと詳しく知らなくて情けないですが)、開発が中途半端に進んできた地方程ギリギリで家族養って生活してる農家って多いんじゃないかなと思います。
あとうちの米はうまいです。
- 水町綜助 
- 丘野 こ鳩 
やらなきゃわからんから
みんなやったらいい
日本の土や水のすごさにうちひしがれたらいい
 
作者より:
長いのに読んでくださってありがとうございます、拝
意見・反論お待ちしています ―― 9/28のブログより転載
---2007/10/24 23:36追記---

たくさんのコメントありがとうございます

かのっぴさん

これは教授の姿勢、その発言に対する反応なんで、売り言葉に買い言葉、コール&レスポンス、阿吽の、その、あれです。議論するつもりの文章ではないです。経済の視点から語られることにも関心があるから、こういった文章を読んでる訳でして。必要以上の批判をくわえているのは教授ではないですかね。影響力の大きさから考えれば、ぼくの文章の非ではないはずです。ありがとうございます。

フジシロ武さん

経済を悪者にしてるつもりはないんですけど、そう読まれたなら仕方ないですね。技術不足です。ぼくが叩きたいのはこの教授の卑劣さプラス、一種の権力に靡いてしまう世論の脆弱さです。勿論、経済学の観点だけで語ることも大切だと思います。問題というのは色々な角度から意見があって然るべきやと思いますし、そういうのがないといけないとも思ってますが、この教授の言葉には(ぼくの中ではかなり珍しく)個人的に腹が立ったので、文章化してみた次第です。
お金は大事です。お金がないと困るし、精神衛生上にもよくない。今現在そういう社会ですから。ただ経済的富の分配だけじゃ人間の幸福がほど遠いってのは、わかりきっていることだと思います。人々はお金だけでは生きてゆけない、ということを言いたいだけです。経済「だけ」じゃ駄目なんですよ。大半の政治家はお金のことを国益、国益とか言ってるように聞こえますが、国益ってのはお金だけではないし、そのことで失ってるものの大きさも、ちゃんと考えないといけないと思います。
で、フジシロさんがおっしゃるように自給率ゼロで仮に安全な(と謳われている、それっぽい、確証のない)ものが食べられたとしても、本当においしいものは食べられないでしょう。例えば自分が一から耕した畑で、愛情と手間隙かけて育て、自分の手で今まさに捥ぎ獲った野菜をそのまま齧る、もしくは出来るだけ新鮮な状態で料理したものと、輸入した「それ」は、比べものにならないと思います。自給率ゼロなんかになれば、「日本から優れた料理人がいなくなる」なんてことも起こり得るでしょうね。まずそんなの料理人が許さないですよ。なのでそれくらいの可能性で、ゼロにはならないだろうという楽観もしているのですが。

確かにぼくを含め、今現在多くの人が自分の食べものを他人に任せています。でもぼくがこの文章をここに投稿した理由は「果たして本当にそれでいいのか?」っていう疑問を持たないことの危険を考えましょうってことです。どこまで見ず知らずの他人に任せられますか?会ったことも話したこともない、言葉も通じない、お金だけで人を操るような人のために、どれだけおいしい作物を作ろうと考えるでしょうか?勿論中には当然、誠実に愛情いっぱいで育ててる人もいるでしょう。しかし、すでに同じ国の人が食べる食材に廃肉を使ったり、冷凍して使い回したり、着色したり、それっぽい匂いを科学的に造ったり、隣り近所の国では肉まんにダンボールまで使うような、そんな生き物であるのも確かです。詩も映画もショッピングも恋愛も仕事もいいけど、偶には田畑へ出てもええんちゃう?ってことです。

最近特に感じることですけど、フィールドワークってどんな分野でも、かなり重要ではないかなぁと思っています。反論ありがとうございました。


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