秋の水/まどろむ海月
 
以下の方がこの文書を「良い」と認めました。
- 夏野雨 
- 風音 
- ゆるこ 
物凄く引き込まれました
- 見崎 光 
- 海狸 
-  
---2007/10/17 00:45追記---
解読しよーと思い、何回も読んでみたけれど、解読できなかった
ことで、解読できたものの外側を、自由に解き放ちました。
たとえば、死や終わりとゆうものが意識化されることで、はじめて、
意識のみなもに映し出されなかったものが、その境界線の向こう側へと、
逆説的に、それらが、死や終わりとしての新たな生を、自由に旅しはじめるよーに。

---2007/10/19 18:02追記---
ぼくのよーな、ハムスター並の知性と、極小のくるみ脳しか持ち合わせてナイ人間に、解読できるモノなんて
ひとつもありませんが(詩に限らず).....つとめて精緻に自作を解説していただいた海月さんの度量とサービス精神に
ありがとうございますとゆうかもうしわけありませんデシタ!(自作語りを要請する、とんでもなく失礼なコメントだったかもしれません!)

えーと、追記を拝読しておもったコトはといえば、
ぼくも、たま〜に、意識せずに「多重に自己を分裂させて会話させるという...」
手法を用いることがアルのですが、そうか、よく考えてみたら弁証法だった!
と、カナリ目からうろこでした(ジブンでジブンに)!
...とゆうカタイ話はさておき、、
まさに暗号をひとつひとつ読み解くよーな解読行為がすきなワケですが、
結果として、いたずらに他人の表現(場合よっては他人の心までをも)を
切り刻んいるだけかもしれない、とゆう強迫観念に近いものはありますね。
たとえその暗号を理解し、正しい情報に変換(翻訳)したところで、
暗号化される以前の、もとの感覚でとらえられたものとは、
べつのものになってしまう。
他人の心の内容を知る(直感的にとらえる)には、分析的、還元的方法では不十分で、
その人に感情移入し、自らがその体験を追体験するとゆう 了解的方法 によるものでなければならない、
とかいってたのは誰だったか、忘れてしまいましたが。

>認識より 感覚と愛は さらに深いのではと。

そうおもいます。
感情、たとえば 愛 にしたって、それを扱う脳の部位は、系統発生的に見てもカナリ古い。
と、理屈っぽいコトをゆーのは、それをうまくコトバにすることができないからなのですが。。
しかし、「悲願」とは深いですねー。てか思えばぼくのすきなものも、そーゆーものばかりな気がしてきました。。
そして、矛盾しますが、解どくされつくされぬものを探しつづけているのです。

ご丁寧な 追記 をありがとうございました。
おかげさまで「秋の水」をよんで想起するものがまたすこし 変容 したよーなきがします。
- LEO 
- つむじまがり 
- 久遠薫子 
 
作者より:
読んでいただき、嬉しいです。

夏野雨(吟醸並)さん、風音さん、見崎 光さん、5or6さん、海狸(吟醸並)さん、ツナさん、 LEOさん、 文月悠光さん、かものはしさん 久遠薫子さん ありがとうございました。

八重さん、いつもありがとう。やはりあなたからコメントをいただけるのは、本当に嬉しいです。 
ゆるこさん、有り難うございます。すごく嬉しいコメントで、感激です。 

ツナさん、コメントを追記していただきありがとうございます。
精確な解読というのは、実は私もすごく好きなのですが、解剖という行為に似ていまして、以前ある詩人から、そこまで読みこなされてしまうと詩の生命まで奪われてしまうような気がします、と苦情を言われた事がありますので、以後は慎重になりました。
とは言え、いつもながらの御厚意に加え、今回はこの拙い詩に対して「解読しようと、何回も読んでみた」とのことですので、自作の腑分けでお応えする事にします。

多重に自己を分裂させて会話させるという表現技法を、私は多用しているのですが、古いギリシャの弁証法を原型として意識しています。
主題は「無常」で、それが 水と 旅と 季節や自然や人事の変容 のイメージに重ねられて語られていきます。仏教の奥義に「色即是空、空即是色」というのがありますが、空とは無常に他なりません。太陽さえ何十億年後に果てるさだめにあり、無常なのです。「終わらない」という言葉が、「無常」と「永遠」をつなぐ言葉として提示されているのですが、実は人の「かなしいねがい」つまり悲願、それは せつないあこがれ と言い換えていいと思っているのですが、その叙情性には特別の位置が与えられていいのでは、ずーっと考え続けています。認識より 感覚と愛は さらに深いのではと。
ツナさんの読解の試みはあまりに深くていささか買いかぶられたかなと恐縮してしまうほどですが、末尾の表現だけはいささか自負があります。
何処にでもころがっているような言葉ですが、このように語られた後に提示されることでこのありふれた表現に、仏教の最奥義でもある四法印「諸行無常、諸法無我、一切皆空、涅槃寂静」の調べが重なって響くように意図されています。日常にありふれたものの深さを見つめなおすことが、いつも最も大切なことなのだろうと思うのです。
自作を主知的に解体していくと、ざっとこんな感じになるのですが、このように頭でっかちな読解を求めているわけではありません。イメージの流れを、音楽的に楽しんでいただけるだけで充分なのですが、それがなかったら、詩としてはまず失敗作だ、と思っています。
では、また



「秋の水」反歌
                           

流るるものが
流るるもののなかでも
流れている


無常が
無常の中でさえ
無常であるように




それでも
もどってきてほしい
という願いばかりは
いつも もどってきて…





                         



---2007/10/18 00:45追記---

---2007/10/19 21:47追記---
さらに丁寧な心のこもった読み応えのある再追記有り難うございました。さすが、というか うなづくばかりでした。



---2014/02/07 16:17追記---

Home
コメント更新ログ