貝吹明さんの『【批評祭参加作品】思うこと』を読んで、いまさら思ったこと。/ツ
さんのコメント
この散文はそのうち消えるよていです。
Hさんがちょっと言ってた、パブリケーションの問題についてはまたこんど。
---2010/03/12 08:11追記---

お読みいただき、ありがとうございます。



ヨルノテガムさん

無断でコメントを借用させていただいたうえさらに丁寧なコメントまでいただき、なんだか申し訳ありません!
貝吹明さんの投稿文につなげてこの文を書くうえで、ヨルノテガムさんの視点はとても大事なものだとおもい引用させていただいたのですが、

>僕はこの言葉を見たとき「記号」を思いましたね
このコメントもまたとても鋭く重要なものだとおもいました。
というか僕もこの散文を書きながら半ばずっと「記号」のことを考えていました。

ええと。つまるところ、たとえば、一枚の絵の中に描かれているものを見る(読む)にしても僕たちは、基本的には
絵の要素を記号的に、言語的に、概念的に、あるいは慣習的なものに従って相対的に、さまざまにカテゴリー化しながら解釈するわけで、

>普遍性を伴なった、魚で言えば 新鮮かつまだイケル! かつ 抽象かつデタラメなもの それらを全て感じるようなモノって表現できればいいですね
絵にしても、詩にしても、何かを表現するうえでこの意識というか姿勢にはとても共感します。

絵画知覚に限らず、僕たちの知覚そのものの構造―人間的な経験である(でしかない)こと自体―がすでにひとつの記号系だとおもうのですが、しかし、
それでもいかなる僕たちの認知や解釈にも左右されずにそこにある鉄格子とは、僕やゴジラがそれぞれの身体的な特性によって通れたり通れなかったりしても(変わらずに)そこに在りつづける鉄格子とはなんだろう、と、、そういうことを考えながらこの文を書きました。

ゴッホの絵の話、興味深くおもしろかったです。ありがとーございました。


大村 浩一さん

うう。コメントありがとーございます。

---2010/03/12 09:28追記---


(まどろむ海月さん 遅ればせながら、おすすめ本ありがとうございます。「知楽魚」。何やら楽しそうな題ですね。荘子ほぼよんだことナインで、推測するしかナインですが、、、いずれ。)

もしかしたらすでにお察しのことかもしれませんが、魚の心の内容はわからない、魚と同様に人げん(他者)
のキモチも永久にわからない、不可知論的に自分の経験や認識の外のことはわからない、世界はすべて
自分の脳が生み出すマボロシかもしれない、、とまでは言わないけど、とりあえず外界があるとして、ぼく という
フィルターを外したほんとうの世界はどーなってるのかわからない、クラスメイトの あの娘 がみている世界と、
ぼく のみている世界とでは違うのかもしれない、だとしたら世界は生きものの数だけ存在するのかもしれず、世界
は world じゃなくて worlds なのかもしれない、そして「生きもののいない世界」を想像してみたところで、
ぼくの存在は消せなくて、やっぱりそれは(畳の上に寝転がっている)どこまでも ぼくの世界 にすぎない、魚には魚の、
ミツバチにはミツバチの、人げんには人げんの、君には君のそれぞれのあるいみで等しく正しい世界があって、
でも無限にありうる worlds のメタレベルには、それらを包み込む全体性とでもゆうか、客観的なひとつの、
誰にとってもあり、誰もが部分的に利用し、誰のものでもない world(まったく、イデア論やカントに戻りたいわけではなく)
を仮定することができるかもしれない(そしてその唯一の world や自然科学を、さいごの「大きな物語」と、無意識にぼくは
呼んでいるのかもしれないけど、それすらもどこまでもぼくや近現代科学(人間的なフィルター)の定めた暫時的な限界にすぎない(けど概念がないと観察すらも成り立たない))、
でももはや、すでにぼくにはほんとうの world と、ぼくの world や、それぞれの無限にありうる worlds との差異を区別する
こと自体がムリそうなところまできてて、だから内とか外とか、主観とか客観とか線引きせずにいったんすべては現象として、
記号としてとらえるほかないのかもしれない、、ンだけど、たとえば昆虫やどうぶつの知覚を例に出すまでもなく
ぼくと先天的な盲人の知覚(聴覚や触覚やあらゆる感覚が構成する世界)でさえ想像を絶するほどに違うはず、ナンだけど、、
それでもたとえばだーうぃん的にいえばぼくたちは内的な過程によってではなく、圧倒的な外部の環境に依拠して淘汰され進化してきたわけで、
そもそも知覚の最終目的が部分的にであれ外の世界を再構成(or 反映)することにある、というふうに考えたとき、ぼくやあなたや盲人や魚の worlds と、世界とは、それでも、ぼくがおもっているほどにはかけ離れたものじゃないのかもしれない、、とおもいこの文を書いたのかどうか、、忘れました。

お読みいただきありがとーございました。

---2010/05/09 03:45追記---

貝吹明さん

......お待ちしておりました。
とゆうのは半分うそですが、この拙文をはっけんしてくださりありがとーございます!
おそらく貝吹さんが「ある」と感じたものは、貝吹さんや他の誰かがはっけんしたりしなかったりしても、いつまでも、依然として、その絵の側に「ある」ものなのだとおもいます(あえて、そう考えます)。
やわらかいミカンで釘は打てないのと同様に、それは冷凍ミカンばかり食べて育ってきた者がする、ただのカンちがいや錯覚かもしれません。アホな脳が見せる哀しいマボロシなのかもしれません。そして、ミカンは凍っていなかった。。
しかし、錯覚とは日常の生活環境のなかにおいて例外的なケースに遭遇したときに起こる、正常な判断ではあるまいか!
そして、ガチガチに凍った従来のミカンならば釘は打てる。そう?考え?て生ミカンや生キャラメルを鈍器化すべく次々に冷凍庫に投げ込むにもある程度の経験と知識が必要になりますが、
最終的に釘が打てるかどうかを?決定?しているものは、アホな脳ではなく、ミカンや生キャラメル側の状態による特性に他なりません。
ガチガチに凍った生キャラメルは釘を打つことが出来る、し、カーリングのストーンとして利用することも出来るかもしれない。。
そんなことをいちいちはっけんしたりしなかったり、丁度いい硬さの温度調整に失敗したりするのもまた愚かしい人げんですが、
誰かが何時それをはっけんしようがしまいが、冷凍状態を見誤って全身キャラメルまみれになってしまおうが、、
ガチガチに凍ったミカンや生キャラメルで釘を打つことができる、そのことに変わりはありません。たとえそれをはっけんする人げんがひとりもいなくても、人類が滅び去ったとしても、そのことに変わりはありません。
遠い星で、生キャラメルの海におぼれそうになっている蟻型エイリアンも、ガチガチに凍りついたキャラメルの上なら陸と同じよーに、毛の生えた足で闊歩するのかもしれません。。

何がいいたいのかさっぱりわかならくなりましたが、、いつかつづきを書かれるのをたのしみにしております、半分うそですが、、カゲながら。

---2010/05/11 05:45追記---

まどろむ海月さん

追伸、ありがとうございます。

なるほど。。おもしろいですね(あ、僕のそのコメントは「知魚楽」と題からピコーンとひらめいて、「知魚楽」について論じているのではなく、ええと、投稿文(「貝吹明さんの〜」)の背景について恥ずかしげもなく自己解説してるだけの代物です。。)。

そして、ほんとうにおつかれさまです。
どれくらいのひとが今回の騒動(?)であがる投稿文やそれに付随する多くのコメント(僕もしてしまった)に
どれくらい身を寄せて読んでいた(いる)のか知る由もありませんが(まったく認知してないユーザーもいるでしょう
僕も入会し立ての頃は他人の作品とかほとんどみてなかったし...)、そしてそのとらえ方(おそらく、僕と海月さんとでは
また違ったものでしょう)はどれあれ、身を引き寄せて読もうすればするほど、海月さんがsalcoさんの散文に
コメントさていたような気持ち(引用はしません)になってしまうのではないかとおもいます(そこから離脱し距離をとるという選択をも含めて)...。

僕にいえるのは、わからない、ということだけです。。
人の心は、他人の生のあり方は、よくわからない。。(自分についてもそうかもしれませんが..)

お体どうぞおご自愛くださいまし。

---2010/05/19 02:00追記---