しじま/ふるる
おぼろんさんのコメント
普通名詞や形容詞を固有名詞として用いるのは漫画やアニメなどでもよくある手法で、今この時代に「それ」は少し安易ではと感じてしまいます。作品自体はまとまっているとは思いますが……それはレトリックの範囲内においてですよね? レトリックなど、今では漫画家・アニメ作家・CM製作者・広告業者、果てはYahoo!やYoutubeのコメントに至るまで、「最低限」の技法でしかないのです。ふるるさんの作風から、「個人的な思いを出さない」という姿勢は肯定します。ですが、そうであるならばなおさら、詩としての表現が単なる叙述ではなく、アラガイさんがおっしゃっているような「世界観」の表明でなくてはいけないと思うのです。この詩における世界観は、描き始めたばかりの漫画家やアニメイターのような、とりあえず「隠喩」を使っておけ、ということにとどまっていて、「世界の表現」になっていない。「空き箱」のなかで「生誕神話」で示されていたような、捨て身さがない。「終わりではない」ではもっと顕著でしたが、……もし、今のふるるさんの段階として、そうした表現をなさるのであれば、アニメの「ポプテピピック」ばりの実験が必要となる(ひだかたけしさんなどが常にそうした姿勢を取っていますね)と思うのです。あるいは、「しじま」という語彙・語感から、日本的な「わびさび」の表現をする、といった方向性もあるでしょう。いずれにしても、「しじま」という言葉をギミックにするにせよ、ガジェットにするにせよ、足りていないように思えるのです。文学極道があった時代であれば、多分一刀両断にされていますよ? 趣味や生きがいとして詩を書くことをわたしは肯定します。ですが、まがりなりにも詩集を出版されている方として、このように「雰囲気」だけに注力する作風はどうなのでしょうか? 「楽しんで書かせてよ!」という思いがあるのであれば、わたしはそれに首肯しますし、沈黙します。……考え方を変えてみてください。もし、ふるるさんが、この「しじま」という対象をイラストとして描くとすれば、どうなるでしょうか? この詩にかけた時間や胆力、描くかもしれないイラストにかける時間や胆力、というものを、今いちど見比べてほしいのです。これくらいの詩であれば、今ではFacebookという素人サイトでもざらに見かけます。思い付きが良いだけに(そうとも言えないですね。今は漫画家やライトノベル作者でも、この程度の抒情には慣れていますから)、なぜこのような安易なやり方で終わらせるのだろうと思ってしまうのです。「姓ではなく名の力を継ぐのだと」……これは、人目を引くようでいて、凡庸な表現です。「姓」「名」どちらも、何も意味していないからです。ご承知のように、日本人であれ西洋人であれ、一般人が「姓」を手にするようになったのは近代に入ってからのことです。このような歴史的な認識が、この詩のなかに表れているでしょうか? 例えば「姓」を手にすることが出来なかった人間(「百姓」と、日本では言いますね。「百姓」とは、農民のことではなく、元々は「姓が雑多である」ことを意味していたのです。その程度の深みは、こうした詩を書くにあたって、心得ていてほしいと思うのです)の悲哀が描けているでしょうか? 「しじま」は、単なる萌えキャラであれれば良いのですか? テーマは「しじま」と「画家」との対峙なのでしょうか? ですが、わたしは詩を読むときには、リアルタイムで流れ込んでくる感覚を重視したいと思っているのです。詩とは、「歌」なのですよ? 小説ではありません。「しじま」と「画家」との対比も明確ではなく、「なんとなく今の自分を表現してみた」という浅い自己表現のように見えるのです。これは、アラガイさんなどが言っている「世界観」とは真逆の表現です。この詩をどう解釈すべきなのでしょう? シュールレアリスムでしょうか? むしろ、コメントとして明確に記していただければ、解釈や反論・沈黙のしようもありますが……。こうした、「ショートショートを韻文にしてみました」といった感じの詩で、ふるるさんは満足されるのでしょうか。この詩が「対話」「会話」を凝縮した表現である、というのであれば、わたしは再考しますし、考えも変えると思うのですが。このポイントはどうかポイントだとは思われませんように。わたしなりの、詩を読ませていただいたということにたいする礼儀です。

ご返信ありがとうございます。詩を読まなくなったと言ったことはありません。現に読んでおります。ふるるさんの姿勢ですから、謝ることはありませんし、感謝も必要ないです。ただふるるさんがプロフィールに書かれている詩についての言及に反した姿勢だと思いましたので、あえて長文のコメントを寄せさせていただきました。プロフィール詐欺にならないようにご一考いただければと思います。
---2024/03/20 15:33追記---