厭離穢土、欣求浄土/飯沼ふるい
一輪車さんのコメント
わたしは飯沼氏のこの御作、目にした瞬間「これはどうも退屈なことになりそうだな」と思ってしまった。
思った通り最後まで読むのが苦痛だった。
でも、ああ、これを「詩らしい詩」だという人もいるだろうなとも思いました。
そこのところ、とても大事なことで、もしこの投稿を「詩らしい詩」といって褒める人が多ければ
どうしょう、と本気で心配してしまった。
いかいかじゃないけど、もう詩なんかアホらしくてやってられないなと。
幸い、表面的には1名ほどの方しか評価をされていなかったのでなんとかこのサイトは
もちこたえたような気がしている。

これ、一見、〈逆接〉風なんですが、ぜんぶ〈順接〉なんですね。
〈転換〉があるようで、 どこにも〈転換〉がない。
詩にとって〈転換〉は大事ですよ。
それはその人が世間、つまりは体制や法や習俗などに対して
どんな感覚で生きているかを示すものですから。
ま、どこをとってもそうなんですが、たとえば冒頭、

  鉄塔の灯りが点滅しているのを眺めなが
  ら「あれは飛行機のためにあるという
  のは建前で、ほんとうは宇宙人と交信
  するためにある」と、小学生も騙せな
  いような(記述の憂き目に遭う、しょ
  うもないホラを呟く。

ここ、これが小説ではなく詩なら、
「あれは宇宙人と交信するためにあるというのは
建前で、ほんとうは飛行機のためにある」と、

このようでなければとても詩としては読めない。
昭和の時代ならいかにも現代詩風であったかもしれないが、
それもう古いですよといわれそうな〈逆接〉をもってきて
いるが、もうそれとっくに〈順説〉になってるでしょというのが
全体にみなぎるこの古さに満ちたいわゆる「詩らしい詩」の
退屈なところだとおもう。

二連以後はもう最悪で、二連の初めの

  ウソとホラの違いってなんだろう。

こんなゆるんだ言葉を書き留めることはないだろうにと
思ってしまう。
せめてカエルとオタマジャクシの違いってなんだろ。
くらいにはしてほしい。
まして、正面から嘘と法螺の違いを論じているのならなおさら、これじゃなをだめだ。
小説やひょ~ろんじゃないんだから。
もう、これでがっくりして以後、読むのが苦痛。最後までは読めなかった。
飯沼さんはわたしなんかより詩をうまく書ける人だとはおもうが、
基本、詩は下手で、うまく書けないのだから、こんな風なものを
無理に書いていても見る人からはちょっとなあと思われるだけじゃないかと。

この詩?をめぐる現代詩フォーラムの評価をみて、すこしホッとしました。
ひとり、わたしが「古い感性」だと評価した例ののおばさんが評価されているようですが、
飯沼さんにはそういうものを越えて、ちゃんと詩を批評する能力をつけてもらいたい。
これじゃだめだ。ぜんぜんだめだ。