詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について/atsuchan69atsuchan69さんのコメント
月乃 猫さん、ポイントをありがとうございます。
海さん、ポイントをありがとうございます。
りつさん、ポイントをありがとうございます。
コメントもありがとうございます。
田中宏輔2さん、ポイントをありがとうございます。
洗貝新さん、ポイントをありがとうございます。
コメントもありがとうございます。
鏡ミラー文志さん、ポイントをありがとうございます。
ご指摘のとおり、紙媒体や雑誌に掲載されることが、実名と責任を引き受けた審査を通過する行為であり、そのこと自体が言葉に重みを与えてきた、という理解には私も大きく同意します。遅いメディアであり、繰り返し読まれ、読解の筋や地図を提示できるという点で、紙媒体が担ってきた役割は、現在もなお重要だと思います。
同時に、私が「詩は衰退したのではなく、移動した」と述べたのは、そうした価値を否定するためではありません。むしろ、責任や審査、批評の体系が十分に機能しにくい場所へも詩的言語が流出している現状を、評価ではなく記述として捉えたい、という意図でした。ネット詩の無秩序さや無責任さは、確かに危うさを孕みますが、その一方で、従来の制度では受け止めきれなかった感情や言語感覚が、そこに現れているのも事実だと感じています。
だからこそ、紙媒体や詩壇が果たしうる役割は、ネット詩を単に否定することではなく、責任・審査・読解という価値をもって、それらを「遅く」引き受け直すことにあるのではないかと思います。権威を威圧としてではなく、責任を引き受ける装置として再定義すること——その点で、コメントに示された問題意識は、私の考えとも深く接続していると感じました。
ひだかたけしさん、ポイントをありがとうございます。
丁寧な読みと率直な所感をありがとうございます。
ご指摘の「優劣判定に回収される理性的ロゴス」から逃れ続けるネット詩表現、そして資本主義的な商品化の論理に対する抵抗としてのリアリティ、まさに私自身が問題として捉えたかった核心だと感じました。ネット詩が評価・格付け・序列化の回路から外れた場所で生き延びていることは、詩が制度の外部へと移動している証左でもあると思います。
同時におっしゃる通り、その自由は無条件ではなく、「詩表現における自己責任」が「生き方そのものへの自己責任」と等価であるという認識を伴ってはじめて、肯定的に成立するものだとも考えています。責任を引き受ける覚悟なき言葉が、単なる投げ捨てや暴力に転じてしまう危険は、私も強く感じています。
現代詩フォーラムをベースキャンプとして位置づけられているというお話は印象的でした。移動し続ける詩にとって、完全な自由空間でも、厳格な制度でもない「一時的に立ち止まり、自己を測り直す場所」が必要であることを、まさに体現されているように思います。潔く身を引くという選択を含め、言葉と生の一致を引き受ける姿勢そのものが、ネット詩表現の成熟にとって重要な実例なのだと感じました。
花野誉さん、ポイントをありがとうございます。
wcさん、ポイントをありがとうございます。
nemaruさん、ポイントをありがとうございます。
おまるさん、ポイントをありがとうございます。
唐草フウさん、ポイントをありがとうございます。
とても共感する捉え方です。
詩がまず「各々の時間や空間にちょん、と在るもの」であり、紙媒体やネットはそれ自体が詩なのではなく、その時々に詩へ向かうための道標や地図のような役割を担っている、という感覚は、私自身の考えとも重なります。
詩が移動すると言うと、場の優劣や価値の上下として受け取られがちですが、本当はおっしゃるように、詩そのものは変わらず、私たちがそれに触れるためのガイドラインや通路の形が変化しているのだと思います。その変化を恐れるよりも、自由な変化として楽しむ姿勢こそ、いまの詩的実践にとって大切なのかもしれません。
詩が「ちょん、と在る」瞬間を見失わずにいられる限り、紙でもネットでも、その媒体は生きた道標として機能し続ける——そんなふうに感じました。