詩が逃げていったあとに残るもの――詩誌の役割について/atsuchan69
鏡ミラー文志さんのコメント
雑誌に掲載されるということは、その世界で名を上げた人からお墨付きを得られるということで、伝統的なその道の正道を行く作品を作る力のある作品作家であるということを認められる名誉が得られることだと思います。

一方でSNS上で人気を出すやり方は、論破的なパフォーマンスであったり、テロ行為に近いやり方で名を挙げようとする方もおられる。

言葉に責任を持つという点においても、記録として残される紙の媒体の価値は高いかと。
名前を出し、その名前に責任を持つ方の審査を通過して公に出された言葉と、そうでない言葉では重みや価値も違うことと思います。

権威というものに、責任を引き受けるものであるという側面を重視し、その勇気をありがたいと思うか、威圧性ばかりを過大に取り立てて我儘な子供のように反発するかで、審査を通過し名誉を貰うことの重要性に対する考え方、引いてはネット詩と紙媒体の比較見識も違ってくると思います。

私は自分の言葉が誰の審査も通過せずに公の場に出るネット詩投稿の在り方に個人が全ての責任を引き受けなければならないことの苦しさを感じることが多く、なのに何故利用しているかというと、表現することが好きで、その作品数が公募だけでは収まらないという面が多いです。実際は相当数駄作があるという自覚もあるため、ネット詩であったとしても審査員がついているものが一番だと思ってます。

一人でパソコンに向き合いて誰にも相談出来ぬまま、自分の作品をこれで良しと投稿し続ける孤独に耐えるのはとても強靭な精神かと思いきや、どこまでも無責任に乱暴言葉をぶつけ、責任さえ放棄してしまう人が実に、多い。

責任に関して言えば、プロで活躍している人は自分への責任だけで動いていないから、投げやりな態度をとるわけにいかず、その忠義があるかないかだけ考えても、匿名性の高い素人投稿とは全く違うと思う。

遅いメディアであること、繰り返し読まれるメディアであること、どう読むかを体系的な解説も含め、筋を見せ、地図を作って、読み手にヒントを与える力があるメディアであること。この三つでネット詩にはない信用を勝ち取ることが大事なのかと。