百を足りて伏しやまず/菊西 夕座
菊西 夕座さんのコメント
りつさん、ありがとうございます。


洗貝新さん、コメント痛み入ります。

 「十字に開かれたスタイル」を見ていただき、なるほどと思いました。たしかに詩体が十字にひらかれたように見えますね。私としてはムカデの体から脚が横串のように、無数に伸びたようにしたかったのですが、胴体(縦の空白)よりも脚(詩文)のほうが長すぎてしまって、ムカデのようには見えませんですね。もっと行数を増やすべきだったかもしれませんが、ムカデの脚があんまりあばれるもんですから、さらなる熟考を打ち切って、形になる前に抑え切れずに放出してしまった次第です。新貝さまが十字の形に受け止めてくださったおかげで、この悪魔みたいなムカデも、聖なる光の噴霧射撃を浴びて、成仏ならぬ昇天してくれることでしょう。

 しかし洗貝さんは『禿げ山の一夜』とか【百足らず様】とか、いろいろよく知っておりますね。その博識のおかげで、わたしも世界が広がります。百足らず様なんかはあきらかにうさんくさいですが、面白いといえば面白いし、なかなか興味深い思想にも思われます。私なんかも穴とか不在とか、足らないところに魅力を感じてしまうたちのひねくれ者ですから。

 しかし、「唯一の救いは美しく伸びた女性の長い髪の毛であります。」ということで、ボードレールの詩にも「髪」というのがあって、その髪を森や海にたとえて顔をうずめ、薫りや揺らぎにおぼれこんで陶酔していく様が描写されていたと思いますが、まさに女性の髪の果てをしらない伸びゆきと広がり、艶めき、芳香、柔らかなたゆたいといったものは音楽につながるところがありまして、静かに横たわったまますっかり力を抜いてしまって、ゆったりのんびり、どこまで浸かっていたい永遠の葬送行進曲にふさわしいといえるのではないでしょうか。

 そして、洗う髪さん、ではなく、新貝さんが禿であるということがなんとなく分かったという新発見に関し、フランシスコ・キクニシ・座・ビエルはですね、洗教師として新貝さんをお慕いしたい、そんなふうに思うわけであります。なんとなれば、洗いやすさにおいて禿頭こそ理にかなったものはないわけであり、禿頭が伏して突きつけてくるまっさらで穢れの無い透明至極な切望表現こそ身につまされる純真さもないわけであって、そのような心洗われる禿頭を御来光のように待望しているわけであります。

 といって、御来光を拝むには高いところへのぼってこそというのは人間もムカデ人間キクニシユウ・ザ・ブロウ(ブロウはもちろんヘアを整える技術のブローからきてます)も同じでありまして、そのためには頭頂を極めなければならないのです。「百足りて、伏しやまず」。まさに富士山を極めてなおも御来光に伏しやまずです。

 
花野誉さん、ありがとうございます。

atsuchan69さん、ありがとうございます。