詩の水族館/ハァモニィベル
ハァモニィベルさんのコメント
夏なので水族館かなと。水族館というと沢山の魚が泳ぎ回ってる感じがするので、今回は、五行詩ではなく、散文詩・詩的散文にして、文字数の多さが多数の魚群のイメージを多少は喚起するかなと試みてみました。中に、ホラーのコーナーが一つありますが、これも夏だからです。水族館と言いつつ、集まったのはかつての日本の川と海の世界ですが、夏が猛暑となっている現代(いま)の日本では、これらの景色も、だいぶ風景が変わっているだろうなと思います。ニュース等でその変容が一部伝えられることが多くなって来ましたが、その変化を敏感に認識する土台になるのは、ここに集めたような、かつての生き生きとした風景であるように(わたしは)思います。

そしてまた、これらを集めてみて思うのは、いま眼の前の景色を、生き生きとした風景として描き出せる為には、鋭く繊細な感受性が必要なのだろうなということです。もし、そういう眼を持った人が居て、本作を一読したとしたら、きっと、
冒頭に置かれた 〈啄木〉の蟹が、最後の出てくる〈魯山人〉の蟹と、呼応している事に気づくだろうと思います。それ以外の本質的でない事は無視して。

   *    *    *

◆本作を読んで頂いた方には、その方の投稿作品を私も読ませて頂き、
そこでのコメントにお礼の言葉を添えさせて頂きます。
コメントを残された方には此処でお返事いたします。


※ ※ ※
洗貝新さん コメント感謝します。

 >元の作者原文を読まなければちょっと戸惑ってしまう。

読んだ人が戸惑ってしまって欲しい、というのもわたしの制作意図に
含まれているので、色んな意味で「戸惑う」べきだ、と思っています。

ただ、表現モラル的に戸惑いを覚える、という素朴な論点に、お答えすると
この展示作品に対して、
<通常のように書かれた詩作品>のように通常のように読もうとすると
表現モラル的に戸惑われてしまう、と思います。

本来、通常ならば、私は自分自身の文章力も表現力もありますので
べつに、他人の文章を使って書く必要は全く無いわけです。むしろ苦痛であり面倒なんですが、
古典愛好家ではない人(古典閑却家)に、古典を意識してもらおう、というつもりで
ここに並べているつもり、というだけです。
なら、原文をそのまま並べればいいじゃないか、と思われるかも知れませんが、
原文そのままで面白ければ、皆が古典愛好家になってるでしょ。
古典閑却家はそのままではツマラナイから、閑却しているわけですから、
そういう人たちに、古典的な作品や作者に眼を向けてもらえるような、展示の仕方を工夫したわけです。

ですから、
  >どのように読んだらいいのか迷う気もする

というのも、いろいろと館内・園内で、また原典との間で「迷って」欲しい作品なので
それでいいと言えば、いいわけです。でも、まあ、要するにこんな感じですよ、というのを一例挙げれば

 例えば:
     吾輩は猫である。生まれたときから無鉄砲で…〈漱石〉

 と、こんな感じに書いてある、というだけです。

 (私の表現ではありますが)元のパーツが漱石なので、私の文章ではないという意識があるのと、
  元ネタを示唆するダメ押しのヒントに〈漱石〉と終わりに記してある。

ただ、それだけの事です。
しかし、ただそれだけだとツマラナイので、更に、わたしとしては、

  吾輩は猫である。生まれたときから無鉄砲で損ばかりしている。
  智に働けば角かどが立つ。情に棹させば流される。
  意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

こんな風に、自分が面白いと感じる展開にして後をつづけていくわけで、

それによって、でも、漱石 の特徴は、より凝縮されて出てくる気もするし、
それ以上に、わたしが、漱石をどう読んだか、がその裏に現れてくるわけです。

なので、読者はほんとうはご自分がこれをどう読むか戸惑う、よりも、私がこれらをどう読んだか、
を読んでもらえたら、嬉しいですけどね。そこまでの読解力は期待していません。
この作品の心は:
 読者が古典に意識が向いたり、表現力というものを、考えてみるキッカケになれば幸いだ
ということに尽きます。




室町 礼 さん、こんにちわ。コメント感謝します。

まず、
書けと言われても、もう余程のご要望がなければ書かないと思いますよ。
充分書いたというか並べたので。 私が紹介したい作者はぜんぶ展示された気がします。

>ラストに()で原作者の名前を書くのは・・・

それについては、上記の洗貝新さんへの返事の中に書いた通りです。
古典愛のある方のお怒りをかってしまい恐縮です。
あの〈名〉を付記した部分をどう読んで解釈するか、という問題ですが、

>それは古典愛読者への侮辱です。
と室町さんのように解釈して激怒するのも、ひとつの読み方ですね。

実は わたし的には、古典愛読者が、その愛を、炎上のなかで熱く語ってくれるなら
それも良い意味で参考になるな、と期待していたのですが、
愛の方は明確に語られず、私への憎悪の方がメインになってしまうのが悲しいですね。

>愚劣な改ざん

この点については、上記の洗貝さんへの返事の最後に書いた通りです。
古典の原文への編集加工のなかに、原典に対する私の読み方・解釈を現してるのであって
「改竄」というのなら、わりと多くの人の読み方や解釈が「改竄」なのではないですか?


>あまりにひどい改ざんだからです。
次に「愚劣」か「あまりにひどい」か、ですが。
この点は、わたしの解釈が愚劣で酷いか否かが問題になりますね。
これを検討してみましょう。

室町さんは
>啄木の歌を
例にあげておられますね。

まず、私は、貴方の言葉で言うと「改竄」しているくらいだから、
そもそも、石川啄木の原文どおりでない、あの
〈啄木〉と元ネタを示唆してはあるが、私が加工したあれを短歌だとは思ってないので、
もし貴方が、あれを短歌だと思ったなら、既に誤解(齟齬)がありますが、

>頬に伝う と 涙拭わず
>の間が順接でまったく歌になっていない。

この主張がまったく私には意味不明です。
 頬を伝う涙を拭わずに
という日本語は、散文として至極普通の表現ですよ。

「まったく歌になっていない」

等と、安易に言い放つだけで主観を並べるだけでは
その意見をみた人がどう思うでしょう?
バカの戯言だとしか思わないですよ、

>やはりちゃんとした批評のない、
>交流を目的としたサイトだからこうなるのでしょうけど

等と、問題と関係のない愚劣な不満を愚劣に繋ぐのも、別に構いませんが
なぜ、だったら貴方が、ちゃんとした批評をしないのか不思議です。

愚劣でないちゃんとした批評というのは、
仮に 100%論者とは反対の意見や考えを持った読者にも
説得力があり、ときに感服させ、さいごは共感せしめるような
そういう批評ではありませんか?

多分、少なくとも、
>腕の見せ所なのに
>まったく何も考えず
安易に罵倒語をくっつけるだけのものではないだろうと思いますよ。

それさえやめていただければご自由にどうぞ。お願いします。

愚劣か否かについてのセンスは、
室町さんと私では、コメントを見ても、かなり違うのが明白ですね。

追伸/
 「詩の動物園」で中原中也の詩の扱い方に敬意を欠いてるだろう、とお怒りなのは
 わたしに伝わっているので(私の勝手な誤解でなければ)、その旨、一言。
  中也の「汚れちまった悲しみ」は、教科書にも載って有名な作品なので、
 そのまま紹介しても芸が無い。しかし紹介はしたい。そこで、意外性のある文脈に
 はめ込むように啄木とセットの対比の文脈で、軽快なユーモア(原典とは真逆の)
 を添える選択をしてみたので、不敬罪の嫌疑をかけられる余地が生じてしまった
 のだろうと思います。そうした加工に不敬の念は無いのですが、私の解釈は反映し
 ています。中也は元々明るい詩人だろう、という私の印象。啄木の涙は悲しみとい
 より不満の表徴だろう、という私の印象。なので、中也の悲しみと啄木の涙は、
 私という一読者には、あざとい悲しみと涙だと感じられるので、その解釈を、
 加工編集、配列展示のなかに反映させています。
 ただ、それも私のいち解釈にすぎませんので、それが私の表現だと申す次第です。




























---2025/08/18 11:32追記---

---2025/08/18 17:42追記---