五行歌、INVISIBLE/ひだかたけし
朧月夜さんのコメント
「失ったものしか、人は真には求めない」と、わたしは常々言葉を綴っているのですが、それが大事なものであるだけに、もっと飾った表現をしてほしいかなあ、と。詩人の装飾(レトリック)とは、誰かに贈り物(ギフト)を贈るときのラッピングに等しいものと思っているのです。もちろん、詩人の前のめりの表現に手放しで称賛・感動するような読者もいて、それも「鑑賞」の一手法だとは思っております。ですが、ひだかさんの今までの詩の流れからすると、ひだかさんはより本心を隠す方向に表現を持っていくのでは、と感じるのです(実は、わたしにとってはそれが好ましい方向です)。ですが、ひだかさんは「いや、今こそ己を表現するぞ」と思うのかもしれず、詩人や詩の愛好者にとっては、むしろそのほうが好ましい方向性でしょう。萩原朔太郎を「ワンパターン」と思う読者は、詩人にも詩の愛好者にもなれませんからね。一方でピカソやダリのように時代につれて変化していく芸術家も現代にはいて、「あなたはどっちなの?」と。詩を綴るものではなく、詩を読むものとしての感想です。

うーん。基本馬鹿ですので、詩を文字通り解釈していまいました。では、ひだかさんの詩想はなへんにあるのだろうか、と。言葉の選択においてだろうか、その組み合わせにおいてだろうか、韻律においてだろうか、韻律を招く改行においてだろうか? と。詰問ではないのです。今は単純に答えがほしくて、作者の説明がほしくて、質問させていただいております。詰問調になっているとしたら、体調が良くないせいです。例えば、「見えないものこそ見えるものの根底」とは具体的に、霊性の礼賛などでしょうか、あるいは数学的(観念的)な世界への帰結でしょうか? だとすればなぜ「花」という具体物が出てくるのか……それが詩なのかもしれませんが、わたしは戸惑ってもしまうのです。この詩は「忘却された物」の歴史の表現ではないのか? などと。わたしの解釈は否定されましたので、保留いたします。あるいは、これ以上作者の解説など求めないほうが良いのかもしれませんが……。すみません、これは返信ではなく独語・弁明ですね。
---2024/03/25 22:29追記---

「フロイト的なエロス・タナトスを突き抜けたユング的な普遍的無意識のもんだい です。√」
ジョージア・オキーフにおける花の表現のようなものでしょうか? わたしはジョージア・オキーフの花の表現をエロスととらえることに懐疑を覚えるものなので……
---2024/03/25 22:39追記---

返信をありがとうございます。なんとなく理解できたように思います。今後のひだかさんの詩を読むさいの参考にさせていただきますね。
---2024/03/27 17:58追記---