スニーカー/yamadahifumiアラガイsさんのコメント
本来芸術とは、娯楽とは異なる苦しみ産むものだと僕は思ってる。
少しでも娯楽性を意識するならば、僕はそれを芸術とは呼ばない。
故にピカソの晩年の絵や岡本太郎の絵画は真の芸術なんだろう。 観ていて僕には心地よくないからである。
詩人は言葉を書物に綴じ込め人々に売り渡す。 言葉はその目的を離れて表現になる。表現とは目的を離れた芸術として娯楽にもなる。では何故娯楽が芸術と呼ばれるに至らないのか。娯楽とは人々を選別はしない。誰でもが求めれば娯楽は享受することができる。対象は受け止める個人が選別すればよいだけだ。しかし知識ある人々にとってただ娯楽を享受するだけではもの足らない。人生をより深く生きようと思考するその糧を亡くしてしまうからだ。愉悦だけを抱いて生きぬくには人生とはあまりにも辛いからだ。
娯楽が目的ならば作り出す言葉に責任があるはずもない。読み手が愉しめればそれでよいのだ。しかし芸術はそれでよいのだろうか。一要素に過ぎない言葉を書物に詰め込み売り買いする。この行為そのものは娯楽と同じではないのか。
無論娯楽性に富んだ優れた詩を認めないわけにはいかない。耐え難い苦しみや哀しみを生きぬくだけの世界。これだけでは人生はあまりにもつまらない。
一体芸術と娯楽との差異を生み出すものはどこにあるのか。芸術と呼ばれ、それに耐えうるものにするには何が必要なのか。
詩人はただ言葉を売るだけでよいのだろうか。