「反逆する読者」宣言/KETIPAベルヤさんのコメント
拙い作品の書き手の私が、ここに書いていいのかと考えました。
言語化するということは、表現する作業の仕上がりに
四方八方へと、ひとり歩きしてくれれば、それこそが
詩の存在だと思います。書き手が世へ手放し、読み手がそれを
手にした時、言語化されたという現実の世界から逸脱する
生ものであり、読み手それぞれの解釈で、時も環境も
違う次元へ読み手を導くものであればいいと思います。
書き手は、読み手のものになってからは、
すでに言語により、読み手へ説明や言い訳は出来ない
とも思います。
音と言語について、ずっと考えていました。
音は、まさに生ものでその場にいたものにしか感受できない
一瞬の輝きだと。対して、言葉は紙に残りいつの時代にも
存在していることへ、自分の中で問いかけが始まったのです。
でも、僕は好きな作品は何十回も読むのですが、ふと気づけば
時が経つことで、同じはずの言語化された作品は
常に自分へ違う感動を与えてくれるのです。
音と同じように、言葉も生きている、生ものだと思います。
そういう、読み手へ自由な余白を託してくれている
大きな器の表現力には、消え入らない魅力があるのだと思います。
現代詩であるが故に、と思うのに、古き良き詩の新鮮さへ
何度も省みるのは、現代詩という言語に甘えていないだろうかと
僕自身、反省しています。
もちろん、先人の豊かな詩のもとに現代詩が存在している
慎みを持っての発言ですが。
わたしの詩は、どこから読んでいただいても
言語の形に捕われず、夢想していただいても
不評であっても、読み手の手元に辿り着き読んで頂く
第一歩ですから。
それは、とてもありがたいことだと思います。
---2010/06/15 11:03追記---
僕も音楽をやっていますが、言語のない表現にも、感情表現は
最も必要でなければいけないと思っています。たとえ、同じ音の
連続だけ続くとしても、楽典にはそこは甘く、そこは歩くように
と創られている訳で、それら全てを我らは自己の自立の感性で
死にものぐるいで表現することをおしまない者が、
聞いて下さる方々へ言語を乗り越え琴線へ触れることが出来ると
信じています。
5年くらい前かな、師も我らもドツボにはまり、ゲネプロの段階
でも抜けれずいた時、カラヤンでさえもこの難曲を1年かかった。
彼らを観ろ死にものぐるいでやっていると、怒鳴られました。
目から鱗でした。音は、終えた瞬間、倍音が生み出され、
生き続け表現し続けてくれている。間(ま)はなまで生きていると、その度に愛おしく思います。どうぞ、頑張って下さい。
我らの先は途方もなく長いです。
コメントありがとうございました。