眉のあたりにすずしさの残る少女みたいに/須賀敦子とその「詩集」について/渡邉建志
 
れているのだが、すでにここにひらがなの多用が現れていて、私はうれしくなってしまう。後年の須賀は作品にすごくうまい言い回しを駆使したひとで、短編に必ず一つずつは埋めていくのだが、それはたいてい、ひらがなで書かれているのである。あたかも、それは「音として」ゆっくり読まれるべきだ、とでもいうかのように(そして私は「でたっ」と思う)。一方、この詩集においては、その種のパンチライン、びっくりするような比喩表現は出てこないのだけれども、その代わりと言ってはなんだけれど、歴史的仮名遣いで書かれた優しさが、筆跡の写真を見ると滲み出てきていて、それは活字では味わうことができないものだ。1959年に、歴史的仮名遣いで
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